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在日商工人を語る - 8 (方貴達) プリント メール
2010/06/22 Tuesday 03:13:50 JST

9: 方貴達の章

「一日中はたらいて、夜道を店から家にむかって歩いていますとね、月が見えることがあるでしょ。そんな時、わたしはいつも思うんですよ。あの月を朝鮮にいる母親も見てるだろうってね。月をかすめて鳥が飛んでいったりすると、わたしも鳥になって朝鮮に行けたらなって本気に思うんですよ。

郷里には年とったわたしの母親がいるんですが、わたしは朝鮮籍ですから韓国にいる母親に生きているうちに会えるかどうかね。生きているうちに統一されれば会えるんですがね。釜山からあまり遠くない山の中で今でも百姓しているんですけど、わが子でも朝鮮籍のものに会いにくることはできないのです。」

以上は方貴達が還暦を迎えた時の「身世打鈴」の冒頭の部分である。1970年代前半の記録であり、方貴達の次男・姜徳勲一家が北朝鮮へ向かってから10年経過していた時の述懐でもある。だからであろう、朝鮮籍が強調され、統一の暁が語られている。将に、時代の証言とも成っている。この後、方貴達は1976年に北朝鮮を訪れ、次男一家を会っている。そして一年置いて、78年には韓国の親族を訪問している。

斯様に、半生を語った「身世打鈴」から10年、古希で生涯を閉じた方貴達の70年代後半の北朝鮮、韓国と連続訪問した行き方には興味をそそられるモノがあろう。この方貴達が半生を語った「身世打鈴」は、『身世打鈴』(東都書房、1972年8月刊)に収録されている。尚、「身世打鈴」とは、「自分の身の上のことについて愚痴をこぼすこと」(『朝鮮語辞典』小学館、1993年1月刊)とあり、日本語の辞書では引けない言葉である。

方貴達の「身世打鈴」は今も読むに値する。在日朝鮮人史の「資料」として、貴重である。それは、大半の在日朝鮮人が何故日本へ渡って来たか?在日朝鮮人が帝国敗戦後をどの様に生きたか?を「愚痴」語りしているからである。

先ず、次の「愚痴」である。

「戦争が終ってからは、わたしもいろいろなことをやってみました。渋谷や新宿の露店で闇物資を売ったこともありました。運動靴を神戸まで仕入れに行って、もう間もなく東京に着くという時になって、警察の一斉検査にかかってすっかり取りあげられる」
「千葉から南京豆を背負って来て売った」
「信濃町の駅前でおでん屋の屋台をやり、一日に2、3千円ももうけた」
「品川の方には朝鮮人がかたまって住んでいたので、どぶろくをつくっておくとよく売れました」

これらの在日朝鮮人の生き抜くための努力、労働が在日朝鮮商工人を産み出していった。

在日朝鮮人の歴史を語る時に方貴達の「身世打鈴」が欠かせない理由に、方貴達の長男が歴史家・姜徳相である、こともあろうか。姜徳相は麻布の「韓人歴史資料館」の館長を務めているが、方貴達はその生涯のエネルギーの大半を、長男・姜徳相を「学者」として育てることに注いでいる。むろん、方貴達は二男四女、6人の子供の子宝に恵まれているが、男系の朝鮮社会と長男を重視する儒教の背景が二人の息子をどの様に育てたか?から生涯が語られる。

その長男の姜徳相は徐台洙の後輩である。師は青山公亮であった。当時、朝鮮史を教えていた大学は明治大学以外には、旗田巍のいた都立大学しかなかったらしい。旗田巍は旧制五高、東京帝大を通して青山公亮の後輩に当たった。そして共にコロン(植民地の入植者)として、朝鮮の旧制中学校に学んでいる。

姜徳相は慶尚南道に生まれ、3歳で玄界灘を渡り、日本の教育体系のなかで育ち、日本の大学に学び、日本の大学の教壇に立っている。一度、方貴達に育てられた歴史家・姜徳相は一世に区分されるのか?二世なのか?それとも鄭大均特有の分類、1.5世なのか?尋ねてみたいものである。

金達寿師に拠れば、朝鮮人の学者は女が育てる、そうである。在日朝鮮人「学者」で言えば、姜在彦、李進煕、尹学準、徐台洙など夫人の存在が大きい、と指摘されている。姜在彦、李進煕、尹学準などは帝国敗戦後の一世である。朝鮮戦争中或いは戦争後に日本へ密入国し、日本の大学に学んだ人々であり、夫人は二世或いは日本人であった。彼らには糟糠の妻の存在が大きかった。賢夫人に恵まれなかった安宇植に関して、金達寿は自身を省みてか?才能を惜しんでいた。

姜徳相の場合は日本育ちでありながら李氏朝鮮社会の伝統受け継いだ母親、方貴達に育てられている。その方貴達を「子供の教育や食事に至るまで朝鮮を守った」と、朴鳳瑄先生は評価した。

息子を学者にする為に方貴達が如何に働いたか、「身世打鈴」のなかで以下のように語っている。

「兄ちゃんは学問はよくできるけれども、お金のこととなるとからきしだめな人間で、お金を払えないようでは恥ずかしくて学校へ顔出しできないと言って、部屋でひっくりかえってねていました。わたしは兄ちゃんのその様子を見ているとせつなくて、ひるはニコヨン、夜は屋台のそば屋で働き、屑鉄をひろいあつめたり、夜の目も寝ないで、ようやくそれだけのお金を兄ちゃんに持たしてやりました。その時はうれしかったですね。そういうことはわたしには苦労とは思えないのですよ。兄ちゃんはそのおかげで立派に学問をして、今はいっぱしの先生になりましたものね」

在日朝鮮人一世には両班を生み出す、「科挙」文化があった、ことを伺わせる「身世打鈴」である。

方貴達は1911年8月18日に、父・方漢奎、母・咸陽呉氏の長女として慶尚南道咸陽郡水東面花山里1074-8に生まれる。

1928年、姜永元(晋陽姜氏)と結婚。
1932年2月15日、長男・徳相を出産する。
1934年12月30日、長男を連れて玄海灘を渡る。東京市港区古川町に仮寓。
1935年、渋谷区豊分町29番地に転居、屑屋を始める。
     4月17日、長女・福順を出産する。
1936年6月12日、次男・徳勲を出産する。
1938年4月、長男・徳相が臨川小学校に入学。
1939年1月、渋谷区新橋町14に転居、屑屋の仕切場を拡大する。
     2月12日、次女・福嬉を出産する。
1940年、義妹が来日し同居する。
1941年7月6日、三女・孝子を出産する。
1943年、渋谷区千駄ヶ谷4丁目676番地に転居する。屑屋を廃業、明治運送店を開業。
1944年、東京に空襲が始まり、疎開に伴い運送業務は盛況。
1945年1月1日、四女・福子を出産する。
     2月、強制疎開で渋谷区穏田に転居。
     5月、空襲を受け、家財焼尽する。
1946年2月、宮城県牡鹿郡女川町東伊勢浜に移転する。夫・永元、海産物業を開き、商売は順調。
1947年、代々木駅前に間口1間半、奥行2間の店舗を請入、飲食店を開設する。
1953年、代々木にパチンコ店を開店。続いて船橋、尾久にも開店。
1955年、港区芝高浜町14に転居。次男・徳勲が広島の朝鮮高校の教師に就く。
1956年、渋谷区千駄ヶ谷2-18に転居
1957年、次男・徳勲、李順才と結婚。
1958年、代々木に、中華蕎麦店を開く。
1959年、練馬区春日町二丁目へ転居、次男夫婦が同居。
     7月、長女・福順、柳如桂と結婚。
1960年、7月11日、長男・徳相、文良子と結婚。
     7月13日、次男・徳勲一家、北朝鮮へ。
1961年1月27日、夫・姜永元、肝臓癌のため死亡、享年48歳。
1962年7月、渋谷区千駄ヶ谷4丁目へ転居。
1963年、次女・福嬉、鈴木輝之と結婚。
1964年、渋谷区代々木三丁目十二番地に転居。
1966年、三女・孝子、秦衛耕と結婚。
1969年、白内障の手術をする。
     4月12日、四女・福子、張茂一と結婚。
1971年8月18日、家族一同、友人などで還暦祝賀パーティを東京大飯店で開く。
1973年、糖尿病と診断され、代々木病院に入院、高血圧症状を併発。
1974年5月、渋谷区代々木2-40-14に転居。この年、北海道・九州・沖縄・八丈島など日本各地を旅行する。
1975年、天理教に入信。
1976年8月15日、北朝鮮へ旅行する。次男・徳勲一家を訪ねる。
1978年11月、韓国の親族を訪問する。
1981年2月28日、代々木病院に入院する。腸を手術する。
     12月1日、転倒により脳内出血を誘発する。翌2日午前4時3分に息を引き取る。

方貴達の訃報に接し、朴鳳瑄先生は「その瞬間、私は自分のオモニを亡くしたような悲しい錯覚におそわれた」と、述懐している。朴鳳瑄先生に拠れば、方貴達は素朴な朝鮮女性の高貴な品性を最後まで持ち続け、長い異国の生活でも決して日本に同化せず、朝鮮女性の感情と感覚、生活態度を守り通した、そうである。

ここに挙げた「年譜」は、「方貴達オモニ 年譜」から、南牛流に書き抜いた。南牛流とは「張斗植年譜」の編纂を通して金達寿に教えられたことで確立されている。つまり、南牛流とは日本人の目で在日朝鮮人の活動を評価する、ということである。「方貴達オモニ 年譜」は長男で歴史家の姜徳相が編纂している。故に、年譜は実に良く出来ている。だが、それは在日朝鮮人の歴史家としての目、最愛の息子の目で編纂されている。金達寿に拠れば、在日朝鮮人の生き様は日本人に評価されて確立される、ということであった。南牛は金達寿の年譜を師自らの監修のもとに行っている。

方貴達は在日朝鮮人のオモニの一人であったが、その軌跡を追う意味は在日朝鮮人がどの様に日本で商圏を確立していったか?それを知るには、呉圭祥『企業権確立の軌跡』(朝鮮商工新聞社、1984年2月16日刊)が欠かせない。そのなかで、呉圭祥は「企業権としていちおう行使しているいくつかの権利は、おのずと与えられたものでは決してない」と述べ、1949年3月5日、外資委員会当局と朝聯生活権防衛委員会の協議で「昭和20年9月2日以後、引き続き日本に住所を有する者」は、「本政令に関する限り外国人として取扱わない」という条文を勝ち取ったことを強調している。

これは方貴達の「年譜」にある1947年の飲食店を開設と、1953年の代々木にパチンコ店を開設できる間の出来事である。「方貴達オモニ 年譜」には、1949年・夫の永元とともに民族学校防衛の先頭に立ったことが記載されている。1949年の在日朝鮮人運動で、方貴達が先頭に立っていたことは特筆に値する。この時代の在日朝鮮人運動を指導したのは、南労党であった。どの様に指導したか?指導者であった朴甲東の証言がある。

この『企業権確立の軌跡』は、山梨学院大学の宮塚利雄教授が保持していることを自慢した書籍である。記憶に間違いがなければ、宮塚助教授(自慢した当時は助教授であった)の自慢を耳にするや、直ちに小平の朝鮮大学校へ電話を入れ、著作者本人から戴いたものである。だが、その後使うことはなかった。理由は、宮塚利雄教授がパチンコ産業を取り挙げるとパチンコ産業の伸びが抑えられ、朝鮮料理を「焼き肉料理」として取り挙げるや、牛肉に色々と問題が浮上し、奮わなくなった。それには宮塚利雄教授が「民族虚無主義」に立脚した叙述を重ねた点にある、と南牛は考えている。在日朝鮮人の商工人が関わったパチンコ産業と朝鮮料理に関しては、宮塚利雄教授とは違う、全く異なる「主体的視点」の確立、が求められている。

方貴達の年譜から受ける一つに「科挙」文化の影響である。日本には佐賀藩を除き、科挙の伝統が無い。李氏朝鮮の「科挙」文化の伝統を背負った在日朝鮮人社会は教育熱心である。

例えば、何年か前だったが、神奈川県当局が調査した報告書には、日本人社会に比べて在日朝鮮人社会の進学率が高い、と出ていた。当初、それを元手に、南牛は金秀大に日本社会に於ける差別のなさを強調したが、どうも判断を間違った。日本社会は科挙を知らずに近代を迎えている。
 
方貴達の次男・徳勲は妻子と共に北朝鮮へ、1960年に帰国している。それから16年経過して1976年、方貴達は息子を訪ねて平壌を訪れている。その時のことを、姜徳勲は以下のように書き記している。

「暇があると、大同江ホテルに母に逢いに行きました。足が大変弱くなって、私は母を手でささえて、一緒に歩きました」

この時、方貴達は60代の半ばである。労働が身体を痛め、歩行に影響を与えている。そして、姜徳勲はその労苦を以下のように記述している。

「父が解放後失明し、母が私達を育てる為に、どんな苦労をしたか。私は、母と一緒に米の買い出しもしました。露天で運動靴、海産物を売りました。石焼いも、今川焼、夜なきそば、パチンコ、一杯飲み屋等もして、本当に苦労しました。それでも母は、私を祖国と人民の為には働ける人間にする為に、苦しい生活の中で、朝鮮中学、高校と、勉強させてくれました」

姜徳勲は北朝鮮の演劇界にいて、方貴達の訪朝時に革命歌劇「密林よ語れ」に出演している。

姜徳相は大学で良い先生に恵まれた。青山公亮だが、青山公亮は、1896年東京市赤坂区溜池にて出生、1914年に京城中学校を卒業、旧制五高から東京帝国大学文科大学史学科に進み、1920年に卒業、旧制松江高校教授から台北帝国大学助教授に、帝国敗戦後に上智大学を経て1949年に明治大学教授となる。

明治大学文学部長、朝鮮史研究会会長を務め、1965年明治大学教授の定年を迎え、退いている。青山公亮は高麗史の研究で成果を残している。その高麗史の研究を受け継いだと見られる徐台洙は、弔辞に「先生の教えを受けて巣だった、私達朝鮮人研究者達ですが、研究生活や、人生の壁にぶつかるたびに、先生のもとに集り、研究者としての道、人間として、正しく生きる道を示していただくとともに、励まされてきました」と、述べた。

方貴達の長男の姜徳相は、「私が先生の教えを受けたのは、二十数年前のことである。先輩が欠席すると、受講者は私一人ということもよくあった」と、青山公亮の講義を述懐している。姜徳相の回想から青山公亮が統監府の中で伊藤博文と鉢合わせした話を知ることができた。

2010年6月21日 夏至  南牛 安部桂司

依拠した文献・『方貴達オモニの思い出』(姜徳相、1982年12月刊)、『青山公亮先生の思い出』(「青山公亮先生の思い出」編集委員会、1981年9月刊)

 
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