7: 金範の章「丸金」の名前は大変著名である。南牛が「丸金」の名前を耳にしたのは、山梨学院大学の宮塚利雄教授がゼミを設けている話からであった。宮塚利雄教授は大学の講座に「パチンコ」を取り入れただけでなく、焼き肉、街金も取り上げ、在日商工人の活動を調査している。心算、この分野の第一人者だが、惜しむらくは金正日総書記と北朝鮮に対して「悪意」を抱いている為、在日朝鮮人の商業活動を総体的に把握出来ないでいる。
今、「丸金」の名前は、この「NKT」のコーナーに目を通す方なら誰にでも知られている。それは『新東亜』誌の記事「金正男の日本内の拠点“丸金ビジネスホテル”の秘密」(2001年10月号)に負うことが大きい。株式会社丸金は、1990年4月26日、神奈川県大和市に創立されている。 韓国、金達寿流に言えば、カンゴクだが、そのカンゴクでも丸金は著名な存在であったようだ。小田急大和駅近くの丸金ビルを建てたのは、高淳日のような1・5世(自称1世)と異なり、正真正銘の済州島人1世の金範であった。 だが、『新東亜』誌の記事に書かれている丸金ビジネスホテルの経営者は「K」というイニシアルでしか表示されていない。そのK会長と金範の履歴は重なる部分もあるが、違う部分もある。其処で、先ず『新東亜』誌に描写されているK会長の略歴を引用する。 K会長に関して、「1924年、済州城山浦で出生し、1999年10月に死亡した。詳細な学歴はわからないが、解放前後に日本へ密航し、炭鉱と鉄工所で仕事をしたことが伝えられた。1960年代後半、東京の中野駅近くに焼き肉店である“アリラン”を開業し、財を築きはじめた。開業3年にして5階建ての建物を所有するようになった彼は、1970年代後半に横浜近郊の川崎市四谷付近に、400坪あまりの規模の焼き肉店“鴨緑江”を開業した。現在はK会長の本妻である李某氏が“鴨緑江”と、この食堂が入っている7階建ての建物を所有している。K会長はまた1990年ごろ、問題の丸金ビジネスホテルを開業した」(ウラジミール訳)と、『新東亜』誌に書かれている。だが、K会長のプロフィルは、南牛の知る金範に極めて近いが、かなり違ってもいる。 金範は済州島北済州郡旧左面出身である。独創的な朝鮮料理店経営者として知られていた。それは日本流に言えば「筋金入り」の北朝鮮の為の朝鮮料理店経営を貫き、実践していたからである。金範の言行録に拠れば、 「商工人として私が国と民族のためにできることは、商売を成功させ、物質的な援助を尽くすことだと思う。これは私の国家的、民族的、組織的、社会的使命だと言っても過言ではないだろう。そのためには、商売を拡大させねばならなかった」
金範の社会主義の祖国、北朝鮮への忠誠心には一点の曇りもなかったようだ。在日商工人の北朝鮮へ尽くす心意気には敬服させられる。特に1世の心意気には感動するものがある。金範は50歳を過ぎてから商業活動に従事している。それまでは日本の戦後史を赤く彩る祖防委、それもアクティブで知られた大阪府内の一地域の委員長を務めている。『新東亜』誌の記事には祖防委のことなど一切言及されてない。生年月日もK会長は1924年となり、金範の1918年より6歳若いことになる。それに「鴨緑江」の所在地が蒲田と川崎とでは間に多摩川が流れている。 斯様に『新東亜』誌の記事は生年月日、夫人の名前など、金範とは異なる記述がある。但し、「鴨緑江」と「丸金」の記述が合っている。金範は坪1000万円で小田急線と相鉄線が交差する大和駅から徒歩1分の場所、約300坪を1988年に購入している。翌1989年8月15日にビル建設に着工している。1階にパチンコ店、2階に朝鮮料理店、3階から上はホテルのビルを1990年4月22日に完工する。 1990年4月26日にレジャー産業基地「丸金」、焼き肉・活魚レストラン「丸金」、3階から6階までのビジネスホテル「丸金」をオープンした。この丸金に関わる描写が金範の語っていることと一致する。それに、『新東亜』誌の記述にある「死亡する前までは、このホテルの2階には1,000万円をかけて作った、K会長の銅像(高さ2m)があった」(ウラジミール訳)の箇所が、金範の喜寿を記念して作られた金色の銅像に思い至った。 それから『新東亜』誌の記事に、「汎民連海外本部会員であった彼は、北側が毎年8・15祝典時に板門店でデモを繰り広げるとき、主導的な役割を果たした」(ウラジミール訳)とあるが、この板門店のデモに関して金範は8・15祖国解放50周年民族統一大祝典に参加し、統一に対する信念を固めた、と語っている。金範は汎民連在日朝鮮人本部の幹事を務めていることから、K会長と金範の履歴が符合する。 金範が朝鮮総聯の専従から離れて高円寺で焼き肉店を開いたのは1970年である。店名は「京味園」であった。その京味園は1971年1月に隣家の出火で全焼している。1972年2月に蒲田駅東口に進出する。蒲田駅東口には1973年3月には第三店舗を構えている。金範は味に特長を出し、「晃苑」は蒲田で知られる朝鮮料理店となって行く。 金範が三つの小さな朝鮮料理店の経営から、いわゆる外食産業の展開を図る第一歩は、1975年11月27日の広さ115坪、座席数250席、中小宴会場3室(収容人員200人)の「鴨緑江」の開店である。鴨緑江は開店当初から客が列を成した。朝鮮料理は「タレ」が第一だが、金範は「甘い」タレを出したことで日本人を集客したのである。金範は「重要なことは朝鮮料理の味を、日本人の風味に合わせてつくり出すことであった」と、述べている。 金範が蒲田の本拠地から大和市に進出し、丸金ビルを建設し、多角的な経営を行って収益を上げ、祖国へ奉仕する。株式会社・鴨緑江の設立者にして、万景峰92号建造委員の金範を取り上げるのだが、南牛が知る範囲に留めることとした。『新東亜』誌に於けるK会長の記述と一致しない点の多い記述となった。 朝鮮総督施政下の済州島に関して、実は南牛は隠れた研究者であった。渋谷駅近く、東急の向かい側に「ピーコック」という喫茶店があり、オーナーは3歳で渡日してきたのだが、在日1世を標榜する高淳日であった。在日1世を標榜するとハスに構えた表現を行うのは、鄭大均教授が最近1.5世論を国際高麗学会などで喧伝しているからである。 その点、金範は正真正銘の1世である。済州島で初等教育を受け、成人に達してから大阪へ、そして大阪で日本の教育を受けた韓氏を嫁に迎えている。金範夫人の韓英義は3歳の時に渡日し、日本の教育体系の中で育ったそうである。それは高淳日と同じであり、確かに1世とは言い辛い。 金範に付いて詳しい分けでは無い。だが、1918年生まれだから張斗植、金達寿とは同世代である。高淳日より一世代前の人であり、済州島から大阪へ渡って来たのは、青年へ達してからである。高淳日は、鄭大均流に言えば1.5世だが、金範は真の一世であろう。故に、本物の朝鮮語を話せたのである。だから、朝聯、総聯の活動家であったことが理解出来る。 金範は1918年4月22日 済州島に金哲好を父に、鄭春花を母に出生している。原籍は北済州郡旧左面下道里西門洞1851番地。 1933年3月 下道里私立小学校卒業。家業である農業に従事し、夜学を開き村落の未就学児の教育に当たっている。人を集め、教育すると言うことは、朝鮮総督府末端の注目を受けることとなり、圧迫されたそうである。 1940年7月19日 大阪へ、猪飼野に 1942年12月 韓英義と結婚 1948年 朝聯・大阪府東淀川支部組織部長(専従) 1950年 大阪東西北地域 祖国防衛委員会委員長 祖国防衛委員会の活動は一般に関西が盛んであった。その原因には在日朝鮮人、取り分け済州島人が多く居住していたことに求められる。それに朴憲永が北朝鮮(海州)から神戸港経由で指示していたことがある。南労党の最高指導者であった朴甲東は、済州島から対日工作を行った、と述べている。海州と神戸の中間点が済州島である。 1951年 解放救援会大阪本部事務局長 1953年 解放救援会近畿地域協議会議長 1954年 解放救援会中央本部組織部長。東京へ。 1955年5月 解放救援会、発展的に解散。 1957年3月 総聯東京都杉並支部分局長 1958年4月 総聯東京都杉並支部宣伝部長 1959年10月 総聯東京都杉並支部副委員長。 1967年5月 総聯東京都中央江東支部副委員長。 1970年6月 専従を辞める。高円寺駅近く、長仙寺前に焼肉店「京味園」を開店。 このとき、夫人の経営していたラーメン店改築費用に600万円必要となるが朝銀から融資を受けられなかったそうである。 1972年4月 朝鮮料理店「晃苑」を開店。 1975年11月27日 (株)鴨緑江設立。蒲田駅前に朝鮮料理「鴨緑江」を開店。 1987年4月 「人民朝鮮」後援会代表団 北朝鮮訪問。 4月20日、金日成主席、在日朝鮮人祝賀団と会見し、「在日同胞は祖国の隆盛繁栄と国の自主統一のため力強くたたかうべきである」と述べ、金範は深く感動している。 1988年4月 金剛山歌劇団後援会代表団として平壌へ 1990年4月26日 (株)丸金を創立。神奈川県大和市でレジャー産業、外食産業、ホテル産業を始める。 1992年 万景峰-92の建造委員 1992年4月 在日商工人代表団として北朝鮮訪問。 4月15日 金日成主席と金正日元帥の接見を受けている。 1992年7月 東京朝鮮第6初中級学校教育会会長。 1995年3月 東京朝鮮第6初中級学校校舎改築建設委員会委員長 1995年8月 板門店で開催された8・15祖国解放50周年民族統一大祝典に参加。 1995年10月 朝鮮労働党創建50周年慶祝在日朝鮮商工人代表団として北朝鮮へ
金範に関しては1995年、金範が喜寿を迎えた時期までしか「資料」の収集が出来てない。それで済州島に関して全てを網羅している北済州郡二世の高二三に電話を入れたのだったが、「知らない」と言われた。それで丸金とパチンコに詳しい宮塚利雄山梨学院大学教授へ問い合わせれば好いのだが、彼とは近年疎遠になっている。それに金範の後輩、ピーコックの高淳日とも疎遠となっている。 金範もそうだが、在日朝鮮人と共に歩いてきた南牛だが、その視野は金達寿周辺に限られており、商工人に関わる記述では、李進煕、安宇植などのようにいかない。だが、在日商工人が祖国の為に奮闘した歴史を叙述できる数少ない日本人だと自負している。 姜徹氏への記述もそうだが、間違っていれば何時でも訂正する。また、書き足して行く所存である。金範では済州島研究の一環として調査を行っており、今後も記述を付け足す所存である。 2010年1月11日 南牛 安部桂司 |