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日本は「グローバル戦略」展開の一環として2020年を目途に留学生受け入れ30万人を目指すことになる。日本を世界に開かれた国とし、アジア、世界をとの間のヒト、モノ、カネ、情報の流れを拡大する「グローバル戦略」は、北米、露西亜、支那に展開する1,000万人近い朝鮮人の関心を、必然的に東京都小平市の朝鮮大学校に集めることとなった。
北朝鮮が核実験を行い、新聞報道から週刊誌まで、北朝鮮へ悪口雑言を報道している。その影響は北朝鮮系組織と考えられている朝鮮総聯の弱体化、韓国籍の増加に比例して、朝鮮籍の急減という現象を招いている。その結果、広大な小平の朝鮮大学校の施設が部分的に遊休化しつつある。 思えば、1955年5月の在日本朝鮮人総聯合会の結成は、在日の科学者技術者へ北朝鮮の科学技術の為に尽くすという道を選択させる画期的な転機となった。同時に、その拠点となる「朝鮮大学」が1956年4月に創立される。 だが、「朝鮮大学」の日本に於ける法律的存在は曖昧であった。其処で、玉城肇先生が音頭を取り、後輩の美濃部都知事に働き掛け各種学校と認めさせ、「朝鮮大学校」として発足する。 朝鮮大学校の歴史
朝鮮大学校は1956年4月に在日朝鮮人の民族教育の最高学府として創立された。創立当初は、教職員は10名ばかり、学生数は60名で、2年制であった。そして、発足時は東京都内北区十條の朝鮮中高級学校の仮校舎に置かれた。それが、1959年には4年制に編成され、文学部と理工学部の二学部六学科となる。その年の6月に小平の新校舎へ移転する。小平は市制を引いておらず、小平町であった。 1964年には、文、歴史地理、政治経済、理、師範教育の五学部制に改編する。その後、1967年に工学部が新設される。新設当初の工学部は電気工学科、機械工学科であったが、1969年度には金属工学科が増設される。 この年に理学部の生物化学科が生物科と化学科に分かれた。1990年の時点で4年制7学部、2年制1学部の8学部で学生数1,500名、教職員数は260名となっていた。 小平校舎の施設は、敷地10万平方メートルのキャンパスに研究棟が三棟、図書館、創立記念館、講堂、体育館等を備えている。その中の第三研究棟が理、工学部となっている。 その他に2年制の研究院と社会科学研究所、自然科学研究所などの研究所も併設していて、創立から35年で1万名の卒業生を出し、その内の2割が理・工学部の卒業生と見られる。 理・工学部の卒業生は2,000名にのぼるわけだが、そのなかのかなりの人数が科協に組織されている。朝鮮大学校では、工学部が設置されてから、日本の大学、研究所、企業等に卒業生を出せるようになった。それまでの卒業生は、どちらかというと民族学校の教員をはじめとして、朝鮮総聯の各級組織の幹部養成に力がそそがれていた。 朝鮮大学校の自然化学部門があげた研究成果は学術論文460篇、学会発表数220件というから、これは大変少ない。もちろん、1990年の時点なので、その後は日本の学会を重視するようになっているので、もう少しは増えているのではない。ちなみに、日本の研究者でいえば、10人分足らずの数量である。 その原因は、教育に時間をとられることに加えて、北朝鮮との関わりに時間をとられすぎていると推測された。朝鮮大学の教官が著述した教科書、専門書の数が260巻もあり、科学技術解説書記事が200篇というから、研究以外の力を配分せざるを得なかったのだろう。 廉成根博士は1年間、朝鮮大学校でビナロン合成の実験を行ったが、北朝鮮の要請に対応できるように、90年代に入って電子計算機室、超伝導研究室、C1(シーワン)化学研究室、バイオテクノロジー研究室、ロボット工学研究室などの設置を進めていっている。 ちなみに、第3研究棟には53の研究室・実験室がある。研究室のなかの設備は、日本の大学の研究室と変わらない。 これらの施設の建設と運営資金は北朝鮮から送られてきたということになっている。それは1989年6月の科協結成30周年で、111次にわたり、393億2,323万2,433円に達したと発表された。だが、在日朝鮮商工人の北朝鮮への貢献を考慮すると、朝鮮大学校は在日商工人の民族愛の結晶でもあろうか。 朝鮮大学校の特長として、金日成が誇ったという、外国に「自己の大学を持っているのはわが国だけである」と、北朝鮮が世界で唯一他国に大学を設置していることを自慢したことがある。それは、一方で玉城肇先生に代表される学者群の支援の賜物でもあった。 しかし、1990年代に入り、社会主義圏が崩壊して特に湾岸戦争後において、北朝鮮の科学技術が科協と朝鮮大学校抜きに存立しえなくなってから、皮肉なことにその改組問題が内部から湧き出した、と指摘されている。以下は伝聞情報である。 それは、朝鮮大学校の分割が考えられたと言われる噂であった。理工学部を独立させるという噂であった。それは、また在日の商工人の興味を引く噂でもあった。 在日商工人の北朝鮮への投資、合弁企業の設立がおしなべてうまくいかないなかで、朝鮮大学校と科協が全面支援した呂永伯の国際トレーディングの成功は、それなりの説得力を持つものであった。理・工学部の大学院まで持つ大学の設立構想が商工人の眼前に浮かんだのである。それは北朝鮮も了承することと推測された。 理工科大学が夢ならば、日本の大学と同級の研究所の設立を、規模を縮小しても作ろうとする動きになる。それは東京都の認可を受けた各種学校としての朝鮮大学校からの脱皮、日本政府の認める文部省所管の大学への発転を考えたことであった。つまり、技術移転を効率的に図るには、日本の産業政策のなかに位置づけられるネットワークに組み込まれないことには、どうにもならないことがようやく商工人達が理解してきたからでもあった。 朝鮮大学校は美濃部亮吉都知事のとき、都知事の献身的な努力があって、在日朝鮮人の民族教育の正常な発展を保障しようということで、各種学校として認可が与えられた。それには金炳植が師事した玉城肇先生が旧姓二高出身だったことが大きく幸いしている。美濃部都知事も旧制二高出身で、玉城肇先生の後輩であった。 朝鮮大学校の民族教育とは、「我々は朝鮮民主主義人民共和国の公民」であるということを縦糸にかたちづくられている。しかし、その教育では北朝鮮に帰ることはできても、日本で生活することが難儀になる傾向があった。それでは、北朝鮮の要請する日本からの技術移転を保障することはできなかった。北朝鮮のビナロン合成事業に多大な貢献した廉成根博士は、日本の大学の教育を受けた、そしてその博士号取得に見られるように日本の科学技術教育体系が育てた学者であった。 1991年4月に合弁工場の操業を開始し、合弁の成功例に数えられる、呂永伯の希土類生産の中心を担った研究者は東工大の大学院の原子力工学科に学んでいる。彼は朝鮮大学校の卒業生であるが、その学歴に留まっていたのでは希土類生産技術の日本から北朝鮮への移転で中核的役割を担えたであろうか。やはり、進んだ日本技術のネットワークの中に籍を持っていたことが大きかったのではなかろうか。 そして、近年は朝鮮大学校卒業生の中から、日本の大学の大学院進学希望は増えてもいた。 しかし、この朝鮮大学校から理工系を分離して、大学院まで持つ、日本の文部省所管の大学設立構想は夢と消える。それは、その構想のなかに「ウリナラ離れ」のにおいをかぎつけ、本国が同意しなかったと、今では推測されている。むろん、日本の文部省も積極的に支援しなかったことが響いている。 日本の文部省所管の大学になっても、金日成へ忠誠は誓います、またそのことの方が北朝鮮の近代化のために力を発揮することができます、と訴えても、金日成の誇りである北朝鮮は唯一外国に大学を設けているという言葉に、かげりを出すことであった。さらに、朝鮮大学校を通して、北朝鮮のなかに文部省の科学技術教育制度が入ってくる。ひいては、通産省の産業政策に組みしかれていくことは、火を見るより明らかだと、感じさせたのではなろうか。この好機に文部省には北朝鮮のなかに入っていく対応を見出せなかった。日本政府の無策が結果として、科協の「ウリナラ離れ」の流れを押さえることとなった。 1995年、科学技術協会大会「基調報告」の意義
ウリナラ(北朝鮮)離れの状況を垣間見せるのが、1995年の科協大会での「基調報告」である。 1992年、1993年の科協のシンポジュームには、ある熱気があった。その熱気は1994年からうすらいだようだ。もちろん、金日成の死去もからんでいる。それに、世界に生きる在日朝鮮人を育てる考えを支援する、さくらグループの全兄弟のあいつぐ死去が重なったことが大きい。なかでも歯に衣を着せずに発言した全鎮植の死んだ意味は深い。 そのなかで、1995年の「基調報告」が注目されるのは、その後の朝鮮総聯17回大会の綱領改定で「我々は社会主義祖国を熱烈に愛し、毅然と養護し、祖国との合営、合作と交流事業を経済文化、科学技術の各分野で強化して、我が国・我が祖国の富強発展に貢献します」とされたことが、科協の意見を入れたと見られるからである。 その「基調報告」は金正日の「書簡」を高く頂くことからはじまり、科協の歴史を述べ、千里馬の建設に協力し、朝鮮総聯系商社の貿易活動から、北朝鮮の経済技術代表団への幇助事業にはじまる1960年代の寄与について、1970年代も1980年代も北朝鮮の建設に尽くしたことまで言及している。 在日朝鮮人の科学者や技術者が科学技術書籍と機材の見本を北朝鮮に送る運動は1980年代に引き続き、科協全員と在日朝鮮人を網羅した大衆運動に大きく発展したと、その貢献を誇っている。 そして、それを受ける北朝鮮の科学者から「この様な科学技術書籍と資機材、見本品は祖国の科学者、技術者には砂漠で泉のように貴重なものでありました」と、感謝されたことも合わせて報告している。 これは、正直な記述で、そこにウソはないと思われる。北朝鮮の科学技術界は砂漠だということは、我が祖国には何もないとの報告である。つまり、日本からの情報なくしては、北朝鮮の科学者・技術者は生きていけないというのである。 そして、科協の今後は北朝鮮の科学者との共同研究の分野を広めて深めるという。これは最早北朝鮮の科学と技術は、経済大国日本の「科学技術の発展水準が高い日本で生活している立地条件をあまねく利用」できる立場にある科協の指導下に置かねばばらないと、いうことであろう。 それから10年経過して、核実験を北朝鮮は実施し、拉致問題も関連して日本社会での朝鮮総聯の影響力は急速に低下した。それは朝鮮総聯の組織力の急速な低下を招いた。在日朝鮮人社会では、韓国籍が増加し、朝鮮籍登録者が著しく減少したと指摘されている。 世の中の急変は、親朝嫌韓の南牛の足を引っ張る親韓派の跋扈が証明している。その結果、科協が関わった北朝鮮への技術移転は、日本社会で肯定面が忘れられ、否定面が強調されるようになった。今、北朝鮮のミサイル連射、核実験は在日朝鮮人社会に冬の時代を迎えさせている。 それでも科協も朝鮮大学校も「日本の宝」であることには間違い無い。科協と朝鮮大学校が存在して、日本の技術システムが北朝鮮を動かしていることを忘れてはならない。一例を挙げれば、南北がIT用語の統一を図るときに、北朝鮮の主導下に進められていることである。それには李家の三兄弟の末弟・李秀洛の存在を指摘する向きもある。 韓国の技術用語が米国からの直輸入であるに比し、北朝鮮の技術用語には「主体」性が発揮されており、其処に科協を通して、日本の科学技術の影響力が現れている。 今回、ウラジミールさんの無私の志しにて、ここに朝鮮大学校の「概要」を紹介させて頂けることとなった。 先ず、「朝鮮大学校の教育」では、国際社会の平和と繁栄に寄与する、ことが唱われ、全寮制であることが明記されている。 「特徴」では、カリキュラムに弾力性を持たせている、朝鮮語、日本語、英語で受講できることである。海外の朝鮮人が語学の壁を感じずに入れるのである。 「教育課程」では、4年生では日本の他の大学と同じだと言うことであろうか。 「自然に恵まれたキャンパス」は、写真からも武蔵野の面影が偲ばれる。 そして、今回は「理工学部」の案内を特に掲載して頂いた。 日本が30万人の留学生を引き受けると言っても、それは幾つもの壁を抱えている。一番の壁は言葉、二番目は宿泊所、三番目は経済(アルバイト)であろうか。地方なら兎も角、東京生活は勉学には好環境であるが、生活費が掛かる。 その点、朝鮮大学校には北米、露西亜、支那の朝鮮族から留学生を引き受ければ、その三つの壁は、全寮制ということもあって難なく突破できるのである。 「留学生30万人計画」には、文部科学省、外務省、法務省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省などが名前を連ねている。その骨子を読む限り、朝鮮半島外に在住する1,000万人の朝鮮族に焦点を当てることが如何に有意義か、分かる筈である。 2009・8・14 安部桂司 記 【参考資料】 |