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2010/09/07 Tuesday 16:24:58 JST
 
 
コリア論及No.3 :科協そして朝鮮大学校 プリント メール
2006/12/23 Saturday 23:57:16 JST

安部桂司先生から科協(在日本朝鮮人科学技術協会)に関する精緻な論文を当ウェブサイトに頂戴致しました。「科協」を、通りいっぺんではなく掘り下げて知るには、最良のテキストとの一つと言えましょう。

 

コリア論及No.3 :科協そして朝鮮大学校
~それは「日本の宝の石」です。だが「石」は磨かなければ「宝」にならないのです!~


はじめに

 新聞報道から週刊誌まで、朝鮮総聯系組織への手入れを報道している。その中で、科協に関わる報道には、日本の安全保障に関わる、と見られ注目されている。

 旧ソ連の軍需産業と軍事技術が日本の民需産業に支えられていたことは普く知られている。赤色支那の軍需産業は大日本帝国(以下帝国)の遺産の上に成立し、軍事技術は日本からの民需技術の導入と産業スパイの配置の上に建設されて行った。

 隣国である韓国は、日本との国交正常化以前、60年代末までカービン銃一つ作れなかった。米軍の払い下げ武器で韓国軍は武装していた。韓国は武器製造国に日本の援助でなれたのである。北朝鮮も韓国同等の支援を受けたい要望を持っている。

 日本は明治維新以降、米欧世界との文明戦争を闘い続けている唯一の当事者である(藤原源太郎「トガとお化けの学問」の超克、『みち』Vol.241、平成18年12月15日刊)。藤原は、サイエンスを(トガ=罪過の学)、ケミカルを化学(お化けの学)と訳して、西洋文明の根幹を律している価値規範に邪なる本質が潜在していることに留意せよと諭していた、と指摘する。「和魂洋才」は、その戒めを説く「標語」だった、というのである。その戒めを帝国が忘れ、「トガの学」の最高傑作の原爆、「お化けの学」の最高傑作生物化学兵器の開発に乗り出したのだという。

通常兵器のみ、という限定された戦争ならば、自衛隊は無敵である。湾岸戦争後には、戦争出来る国は日米二国に限られた、と韓国軍首脳が述べている。つまり、核とミサイルは旧ソ連、赤色支那にとって日米の通常兵器による攻撃からの唯一の防衛手段であった。核とミサイルを旧ソ連そして現ロシアが保持してなければ、北方4島はおろか樺太も取り戻せるであろう。これを裏返せば、日本が核武装すれば速やかに千島列島から樺太の南半分まで帰ってくる、可能性が大ということである。北方4島は、日本が核武装の意図を表明しただけで返還へ向けて前進するであろう。

 水は高地から低地に流れる。技術も高い日本から低い旧ソ連、赤色支那へ流れた。故に、旧ソ連、赤色支那の軍需産業が日本の優れた民需産業の上に築かれていることは今日普く知られていることであり、この分野では阪大工学部出身の経済アナリスト長谷川慶太郎氏の説く分野の一つでもある。そして旧ソ連は在日米軍基地を標的にしてミサイル、或いは核ミサイル搭載の原子力潜水艦を配備していたであろう。次ぎに赤色支那も在日米軍基地及び自衛隊基地、日本の主要産業及び交通要地へ核ミサイルを配備しているのは、周知の事実ではなかろうか?

 それなのに、旧ソ連及び赤色支那の行ってきた、今も赤色支那から行われている産業スパイの配置による核ミサイル関連技術の「収奪行為」が糾弾された話を余り耳にしない。むろん、『SAPIO』誌がキャンペーンを張っていることは知っているが、それはマスコミ報道と呼ばれるものではなかろう。

一方、北朝鮮に対しては特出して批判されている。『SAPIO』誌などは図解入りで分かりやすく恒常的にキャンペーンを張っている。それは赤色支那批判キャンペーンに数倍する規模で行われている。日本は北朝鮮に取って「植民地宗主国」である。むろん、植民地ではなかったとの主張もあるが、ここは欧米に見習って植民地宗主国としての矜恃が求められるであろう。

 在日朝鮮人科学技術協会(以下科協)は在日朝鮮人による任意団体であり、朝鮮大学校は東京都に認定された各種学校である。その組織を構成する人員は、人種的には在日朝鮮人のみである。日本国籍を保持する者が関わっているという話を耳にしたことは無い。故に、それらの組織が朝鮮人に拠って構成される北朝鮮、それから韓国と深く関わって行くことは避けられない。

 朝鮮半島は日本列島に近接しており、支那大陸から日本列島へ渡る回廊を形成している。この半島に成立する国家、其処の住民は、列島に存立する共同体に取って極めて重要な存在であう。科協、朝鮮大学校は日本にとって朝鮮半島との連携を考えるときに重要なツールである。

 朝鮮半島北部はレアメタル及びレアアースの埋蔵で注目される地域である。そのなかの幾つかは赤色支那に不足するものである。旧ソ連、赤色支那の核開発を北朝鮮のウラン資源が支えたことは、最近知られてきたが、それは帝国の模倣でもあった。旧ソ連は自国にウラン資源を保有してなかった(独ソ戦争中)にも関わらず、スパイを動員して日米の核開発の動きを調査していた。旧ソ連赤軍の満洲と北朝鮮への侵入は核開発という視点から見れば分かり易い。

 つまり、北朝鮮が核開発を行うに至って日本を模倣することは避けられない。いわんや、今の日本は「スパイ防止法」を保持してない。そしてこれら三国の核開発を支えた北朝鮮の地下資源との繋がりを今後どのように確保するか、ツールである科協をぼろくそに叩いて良いものだろうか?むろん、明確な法律違反が有れば、それを取り締まるのは当たり前である。だが、ツールは保持して行かなければならない。

 以下は10年前に書かれた、日本から北朝鮮への技術の流れを追った「報告書」である。


1:事の起こり

「朝鮮総聯がなければ朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)はない」。朝鮮総聯は日本の中にどっしりと腰を据え、彼等の言う祖国を支えてきた。その忠誠度は見事なもので、愛国団体であった。

 その朝鮮総聯の一構成団体として、科協がある。正式な名称は在日本朝鮮人科学技術協会である。朝鮮総聯傘下には、商工連合会女同など幾つもの組織があり、その組織形態は日本の敗戦後に作られた日本共産党(以下日共)と出自を同じくすることもあってか、よく似ていて、日本人には日共系の組織を思い浮かべれば想像と理解の行くところもある。

 つまり、日共で言えば、日本科学者会議という組織に対応するのが科協であり、東大理学部出身の委員長と書記長によって運営されている日共の現状から組織における日本科学者会議の持つ重要性が理解されるように、今や科学者の存在がその組織のエネルギーを計る尺度とされるようになった。その事が一目にして国民に知らせたのが、オウム真理教に於ける化学技術者の存在であった。更に付け加えれば、民主党結成に於ける二人党首の選出である。鳩山由起夫氏が科学者であることは夙に知られているが、管直人氏は東工大出身である。

 オウム真理教では大臣の村井の刺殺から、科学技術省No.3の林泰男の逮捕までが、一つのストーリーを形成している。破防法の適用が見送られるのは林が逮捕されてからであった。そして、オウム真理教事件でとトバッチリを受けたと、その機関紙でぼやいたのが科協であった。それには『産経新聞』紙の報道ぶりが預かっている。

 その科協の存在が日本でクローズアップされたのは、平成7年12月25日(1995)の『産経新聞』紙であった。恐らく、科協の歴史に於いて日本の新聞の一面トップを占めた最初の出来事ではなかったろうか。

 その記事には、「日本で産業スパイ活動」と、でかい五段抜きの見出しであった。見出しは三行になっていて、二行目が「北朝鮮ハイテク機器入手」そして、三行目が「軍事転用可能物質も」とあった。そして、三面に関連記事があって、そこには事業説明がされていた。

一面のトップ記事の内容は、

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が「カーギー」と呼ばれる産業スパイ組織をつくり、日本企業から商取引を装い、産業用機械や軍事転用可能なハイテク機器の入手を図っていた疑いのあることが、24日までに明らかになった。「カーギー」は、在日本朝鮮総聯合会(朝鮮総聯)系企業を「隠れみの」に活動しており、公安当局で組織の実態把握を進めると同時に、活動状況を慎重に分析している。

と、見出しの記事があり、「カーギー」は、「科学技術」の朝鮮語「カハクキスル」の略称として、

  1. 特殊技術者の養成とその北朝鮮への帰国斡旋
  2. ハイテク機器など技術資料・情報の収集
  3. 軍事転用可能な特殊物質の調達、発送

などが主な任務とされる、と説明している。

 そしてこの「カーギー」という組織のメンバーの構成から科協の存在があぶり出されているのである。つまり、「カーギー」のメンバーはいずれも朝鮮総聯関係者とみられ、朝鮮総聯内部で昭和60年(1985年)に組織された「在日朝鮮人科学技術協会」に所属している、この北朝鮮の作ったという産業スパイ組織「カーギー」のメンバーは科協の会員によって構成されているというのである。更に、この記事には「カーギー」のメンバーであった朝鮮総聯の元幹部の証言が載っている。

 この組織の存在は北朝鮮国内でも極秘事項にされ、朝鮮総聯内部でも「カーギー」を知る人はごく少数だ。私も任務を遂行するのに懸命だったのに、「カーギー」の一員だったことを知らされていなかった。

 この証言からは、これは大変な秘密組織らしいと推測させるのだが、朝鮮総聯と科協、そして、北朝鮮国内でも極秘事項にされているという「カーギー」との関連が、この記事からは不明瞭であった。それに略称「科協」こと、在日本朝鮮人科学技術協会が1985年に朝鮮総聯内部に組織されたことに記事ではなっているが、科協は以前から存在していた。


2:科協の形成と発展の歴史

 在日朝鮮人のいわゆる北朝鮮支持派の科学者の歩んだ道は、五段階に分けることができる。

 その第一段階は、日本の敗戦(1945年)から1959年6月の「科学者協会」結成までを指す。この間の時代変遷は、在日朝鮮人の北支持派の統合組織が日本共産党の指導を受けた「朝連」「民戦」の時代から、北朝鮮の指導が入った朝鮮総聯の時代へと変動している。かなり流動した時代でもある。

 1946年6月に在日朝鮮人科学技術者協会が設立され、1948年5月には朝鮮産業技術研究所が創立されている。それから、1954年5月に在日朝鮮人科学者技術者協会となり、この頃より北朝鮮の復旧建設へ技術者の帰国運動を繰り広げている。それは朝鮮戦争が停戦をむかえた後の在日朝鮮人世界の反応であった。それに対し、多くの日本人が支援する。日本人の間にもアメリカ軍に爆撃された北朝鮮への同情をするものが多かったからだ。

 そして、1955年5月の在日本朝鮮人総聯合会の結成は、在日の科学者技術者へ北朝鮮の科学技術の為に尽くすという道を選択させる画期的な転機となった。同時に、その拠点となる「朝鮮大学」が1956年4月に創立されている。

 1957年4月から、北朝鮮からの「送金」として、第一次の教育援助費と奨学金が明らかにされている。この北朝鮮からの「送金」ということが組織的な問題を含むものとなる、

 1958年4月に、実にややこしいのだが、関西にあった自然科学者達の組織「在日朝鮮人科学者協会」(1953年6月結成)を合わせ、全国的な組織として「在日朝鮮人科学技術者協会」の結成となる。これに「在日朝鮮人建設技術者集団」を参加させている。1954年結成の在日朝鮮人科学者技術者協会から、「者」の字を1字とったわけである。

 在日朝鮮人科学技術者協会とは、技術のところに「者」を残していることからも推察されるように、北朝鮮の復旧建設のためには科学者より、当面は技術者の方が必要であるという、時代の反映を感じさせる。しかし、これは直ぐに考えが改まる。それは、社会科学者や医薬部門の別組織を統合することとなるからである。

 建設技術者も重要だが、北朝鮮の医療体制の再建というか、一からの建設には医薬部門の人材・資材の供給がかかせないからであった。そして、医者は「科学者」だと自認しても「技術者」だと認めることはない。ここに、1959年6月28日、「在日本朝鮮人科学者協会」の創立となる。科協の成立である。一般に朝鮮総聯は、この日を科協創立の日としている。

 1959年6月に北朝鮮を支持する在日朝鮮人科学者の全国的組織の統一が成ったということである。又、この間は朝鮮戦争の影響もあって、北朝鮮との組織的繋がりは無かったと見られる。しかし、それも1958年の「学習組」の組織化が整ってくると、朝鮮労働党の政策を学習すると言うことから、朝鮮の統一と社会主義建設に献身する気風が滲透する事となった。

 第二段階は科協の力量を育成・拡大させた1960年代を指す。この期間に、機関紙として『科協通報』『朝鮮学術通報』が発刊され、北朝鮮の建設を助けるため科学者・技術者が組織的に帰っていった時代でもある。この、在日朝鮮人10万人が帰国したなかに、科協からの帰国者総数は150名で、その中に日本の博士取得者が11名含まれていた。内訳は工学博士5名、理学博士5名、農学博士1名であった。更に、東北大学医学部出身者が多数含まれていたことも、一つの特長をなしている。北朝鮮の医療技術の確立に身を捧げようとした真の愛国者だったと指摘された一団であった。当時の医学会の事情から、博士号取得前に帰国したことに、その志の高さが伺われる。

 しかし後に、東北大学医学部出身者の大半が北朝鮮で粛清されたと噂される事になる。後年に、「日本に残って病院経営をしながら北朝鮮へ支援の手をさしのべた方が正解であった」と、日本に残った遺族に囁かれる。平壌の金萬有愛国病院建設が、その様に言わせたのであろう。この事は、パチンコ産業の中からも同じ声が出てくることとなる。パチンコ店をたたんで帰った商工人も、後の日本におけるパチンコ産業の隆盛から、日本でパチンコ店経営を続けて、祖国へ送金した方が、北朝鮮では立派な勲章が貰えたろうと言う訳である。

 この時の廉成根博士の帰国はビナロンの製造を完成させるためであった。

 ビナロンの製造に付いては、1961年5月6日に工場が竣工され、その前年の塩化ビニル工場の竣工と併せ絵、これが北朝鮮の有機化学工業の基礎を築いたと指摘されている。

 廉成根博士は80名が参加した1959年8月の第一次科協講習会で帰国を宣言した。その準備として1年間朝鮮大学(当時は「大学」と日本の法律から見れば自称していた)でビナロン合成の基礎実験を行い、実験器材と資料を携えて帰っていったのである。有機塩素系の繊維を北朝鮮ではビナロンと言うが日本で言えばビニロン繊維である。

 日本におけるビニロン繊維の研究は戦前にさかのぼる。昭和14年(1939)に合成一号と言う京大の桜田研究室の開発は合成繊維ビニロンの発明として知られる。桜田一郎の下に、李升基、川上博がいて、阪大の呉祐吉も開発には協力したと伝えられている。

 この合成繊維の本格的な生産が開始されるのは戦後のことで、倉敷レイヨンのビニロンは合成一号の研究成果をみて、石灰石と石炭と電力だけでできることから、日本の資源条件に合っていると判断して原料から一貫生産する工程を開発する。その成果が戦後のビニロン繊維の盛行であった。しかし、日本の敗戦後、故郷の南朝鮮へ帰りソウル大学工学部の設立に努力していた京都大学助教授李升基は、朝鮮戦争と共に北朝鮮へ移り、停戦後に興南の工場群の再建に関わる。その時、李升基もまた倉敷レイヨンと同じく北朝鮮には石灰石と石炭が豊富で、日窒が建設した水力発電施設も残されており、電力にも恵まれていることから、自分が関与した合成一号の工業化を試みることとなる。

 しかし、当時の北朝鮮の工業力から、合成一号の一貫生産など夢のまた夢であった。そこで先行している日本からの技術導入を考えたのである。廉成根は京大の後輩にあたった。後に北朝鮮の社会主義建設に大きく貢献したとして、功勲科学者として表彰された。

 1962年12月の北朝鮮の科学院創立十周年記念大会に在日朝鮮人科学者の招請があって、再入国問題が生じたとき、日本科学者会議の後押しもあり、日本の学者が署名運動を行っている。この署名運動の目的には、1963年に開催される全国(北朝鮮)科学者・技術者大会への参加があったと推察される。

 この大会で、北朝鮮の自立的経済建設で提起される最も重要な科学技術問題を解決するために全ての知識、精力を注ぐことが強調された。折から北朝鮮は第一次の七カ年計画、主体路線下の社会主義工業建設期であった。しかし、これは内容的に重工業偏重で三カ年延長を余儀なくされたのもので、後に北朝鮮は1960年代後半に経済成長の下降傾向を辿り始めていたと指摘されることとなる。1967~68年という時期がソ連と中国の論争・対立が頂点にさしかかって金日成政権に難局を与えていたからでもあった。これは、経済建設が軍需と民需の並進路線をとることで難航したということでもあった。

 このために李升基・廉成根によるビナロン繊維工業の確立は、先ず軍服の製造に主力を注ぐということとなっていった、などと韓国への帰順者が証言している。それにより、高度なビナロンの製造を求められることとなった。服地の着色に迷彩が求められると巧くいかなかったことが、その技術的隘路の解決に日本との往来が課題ともなっていた。むろん、婦人服も色彩が問われる。しかし、再入国の壁が大きく立ちはだかっていた。一方1965年に、日韓条約が採択され、日本の資本と技術が韓国へ向かい始めてもいた。

 第三段階は、再入国問題に光が見え、1972年の北朝鮮の科学院創立20周年に李珍珪朝鮮大学校学長を団長とする在日朝鮮人科学者代表団が参加した、70年代となる。小平の「朝鮮大学」は、美濃部都知事のもと各種学校と認められ、「朝鮮大学校」となる。

 この訪朝は、金日成が「在日朝鮮人科学者たちは祖国の科学技術への発展に積極的に寄与すべきである」、直接に命令したことに因る。この1972年の金日成の李珍珪団長への直接指示を境にして、在日朝鮮人科学者に対する指導関係が明白になったと言える。

 北朝鮮の経済は1971年からの六カ年計画で、軍事力増加による経済不振の顕在化へ対応しようとする。それの特長として、北朝鮮から経済建設への積極的寄与を求められたことである。金日成指示による愛国工場の建設が第三段階の大きな特長をなした。

 それに、北朝鮮からの技術者の訪問も始まり、来日する技術者の応接に科協会員が当たるのだが、それは一面、北朝鮮からの工作を受け入れたように見られた。すでに学習組の活動は北朝鮮から送られてきた「党史草案」の学習を深め、思想的に北朝鮮の経済建設を我が事として受け入れる体制を確立していたからである。

 その成果が、総投資額200億円という「愛国工場」の建設であろう。この「愛国工場」の建設には在日朝鮮人商工業者の努力もあり、一方設備・装置・運転に科協が組織を挙げて協力している。

 この時の愛国工場の建設には今に伝わる代表的なものを列挙すると、次のようになる。

  1. 平壌小麦粉綜合加工工場の麺類製造装置
  2. 平安ビール工場のビール製造装置
  3. 平壌穀産工場の異性化糖製造装置
  4. 平壌製薬工場の医薬品包装装置
  5. 平壌金属建材工場の流し台製造装置
  6. 安州製紙工場のちり紙製造装置
  7. 牡丹綜合食糧工場の菓子製造装置
  8. 平壌愛国アルミサッシ工場の生産施設

 愛国工場の総数は67工場施設と言われているが、なかには製造装置のみを送ったように受け取られるが、北朝鮮にはその様な近代的製造装置が無かったので、装置が送られることで、工場も作られたということである。

その上、さらに重要な点は、これらの事業を円滑に進めるために、「三興技研」という技術移転のための会社が1976年に設立されたことである。

 第四段階は1979年4月に、科協の代表団の北朝鮮訪問に始まる。この時に金日成は代表団に接見して「祖国の科学技術を発展させるための在日朝鮮人科学者、技術者達の任務について」という談話を発表した。

 科協では、この談話を、北朝鮮の科学技術発展に寄与するための本格的な実践段階に入ったのだと受け止めた。それの背景には、70年代の「愛国工場」のことごとくが芳しくなかったことにあった。工場を作ってもそれが日本の様に「発展」して行くと言うことが無かったからである。ローソクの様に自然に消えていくのである。それは間接的な技術支援では何の具体的成果も挙げられない、ことの科協側の自覚があったから、この金日成談話を受け止めて次の行動に移されたのであろう。

 一方、北朝鮮の1971年からの六カ年計画は行き詰まり、一年の調整を置いての1978年からの第二次七カ年計画は、終わりの頃は工業生産増加率ですら発表されなくなってしまう。それは、数字での宣伝的効果が現実との懸隔をあまりにも隔ててしまったからに他ならない。いわゆる「大本営の発表」になっていたからであった。

 さらに、漢江の奇跡と言われた韓国の興隆が、日本の資本と技術の進出によるものだという認識を明白に北朝鮮当局に持たせ、金日成をして、ウリ式の日本の資本と技術の導入を考えさせるのであった。それが70年代の工業資材の持ち込み、生産施設を持ち込んでもその運営すらおぼつかないところから、合弁と言う形式が考えられることとなったのだろう。70年代の「愛国工場」と同じ「愛国」でも、80年代の金萬有愛国病院は合弁型式で発足したのは、そのためであったろう。

 金萬有愛国病院の建設から10年経って、1996年に金萬有医師は、「共和国の医療事業を発展させるために、最新医療器材の導入、医療人の派遣や学術交流など、少なからず努力してきた。現在、金萬有病院は、その規模もさることながら、レベルの高い設備、医療技術で人民に喜ばれる総合病院として、全国の臨床医療センターとしてその地位を確固とさせている」と、平壌に作った、自分の名前を冠した病院を誇っている。なにしろ、日本の町医者が北朝鮮2,000万国民のための医療センターを作ったと言うから、その胸の内に誇れるものの大きさが判ろうと言うものだ。

 つまり、社会主義圏の科学技術が医療技術はもとより全ての分野に渡って日本より遅れていることを金日成がようやく認識したのも、この頃と推測させる。そして、それが北朝鮮の科学院をして、科協との共同研究の推進となっていったのであろう。

 更に、その頃は科協の再編をせざるを得なくしていった。それが1985年7月に科学者協会を幅広くすると言うことで、「科学技術協会」と、再び「技術」を入れたことである。科学者協会も科学技術協会も略称は「科協」である。しかし、後者は時として「科技」と呼ばれることがあって「カーギー」と言う。これが、『産経新聞』に報道された、秘密組織と誤解されたのではなかろうか?なお、『産経新聞』は科協の創立を、1985年としているがそれはあくまでも再編の年である。そして、この再編は北朝鮮に於ける合営法(合弁法)の成立と深く関わっていた。それに第三次七カ年計画は1987年から始まる。

 朝鮮総聯は、この第四段階に至って科協会員を表彰するに至る。学術奨励賞と技術開発賞の設置がそれである。そして、北朝鮮も全国科学技術祝典で科協会員を表彰するようになる。1988年の第三次祝典での玄丞培、黄喆洪両博士へ、1989年の第4次祝典では申鉉渉博士が特別賞を受賞したのがそれである。

 玄丞培博士は「農産物の増産を可能にする光合成促進物質の検索方法の開発」で1985年に日本植物化学調節学会賞を受けていて、日本のその分野では知られた学者である。

 その玄丞培博士は植物成長促進剤の開発技術の北朝鮮への導入に関しての共同研究を北朝鮮の科学院との間に1984年から始めている。北朝鮮では科学院が金日成綜合大学、金策工業大学などと連繋して、科協との共同研究をすすめるが、それは「日本という科学技術が発達した国に永住するという立地条件のもとで巨大な科学技術力量をもっている」科協の力を動員せざるを得ない状況に追い込まれていたからである。

 1985年からのC1(シーワン)科学、1987年からの黄喆洪博士との超伝導セラミック材料に関する研究、1988年から趙力采博士との間のシリカート建築材料、1989年からの科協西東京支部との間にコンピュータ及び自動制御に関する共同研究などが組織されていった。

 これらは、第三次七カ年計画に花を添えるものであった。しかも第三次七カ年計画では、国内の8割のエネルギー源を押さえる第2経済委員会も合弁事業に協力したといわれる。在日朝鮮人の商工人の出資による合弁工場が華々しくスタートを切って、安売りの背広で銀座を賑わせる様な対日経済効果を一時的にはあげた。が、1988年のイネミズゾウムシの潜入により、1990年代に入って北朝鮮の稲作は壊滅的不作に追い込められる。さらに1989年のベルリンの壁崩壊は社会主義経済圏を崩壊させ、社会主義分業体制で成り立っていた北朝鮮経済を破綻に追いやっていった。

 またイネミズゾウムシに、北朝鮮の農薬生産力が全く対応できない、無力であることを実証し、その対策の全てが科協に持ち込まれた。既にそれ以前から、遅れを自覚した北朝鮮が必死になって日本からの技術情報の収集に走ったことは、1986年の朝鮮総聯第14次全国大会以後に繰り広げられた、北朝鮮へ「学術雑誌、科学技術図書・各種機器材料および見本を送る運動」がある。これによって、80年代を通して、書籍数で22万冊、各種機器材料および見本で4万点になるという莫大なものが送られていた。それらの支援も、イネミズゾウムシ対策の足しにはならなかった。

 ここのところが『産経新聞』に、北朝鮮の要請で、電卓のたぐいから半導体まで、持ち運びの可能なあらゆる機器類を北朝鮮籍の万景峰号で送った、と書かれたところである。しかし、持ち込んだから役に立つとは限らないのである。

 1989年6月の科協結成30周年では科協会員中に、100名を越す、日本の博士号取得者を抱えていることを誇った意味は深い。


3:社会主義圏崩壊と科協、第5段階へ

 北朝鮮の建国を支えたソ連は崩壊し、旧東欧圏はベルリンの壁の崩壊をきっかけに社会主義を捨てていく。となりの社会主義・中国は、北朝鮮の社会体制を、あれは社会主義ではありません、封建主義です、と幹部に教育するようになる。その一方で中国は、ひたすらに開放経済という資本主義の道を歩むこととなる。資本主義を経て社会主義に至るのだから、中国はまず資本主義を経験しようというわけである。

 そして科協の第5段階は1994年の金日成の死亡からでなく、1991年10月29日の金日成の「全国科学者大会参加者へ送った書簡」からはじまった。

 この書簡は、湾岸戦争後に出されたところに重要性がある。題は「科学技術発展で新たな転換を呼び起こそう」というものであった。もちろん、この書簡は科協会員の必読文献になったと推測される。

 この1991年から北朝鮮は科学技術発展三カ年計画を建てるが、それは湾岸戦争で示され米国通常兵器の威力への対応を、金日成・金正日親子が考えたのではないか。何よりも電子工学を発展させるために力をそそげ、という強調にその反映を感じさせる。

 金正日が「大規模集積回路と特殊半導体素子生産を増やし、高級電子日用品生産と光ファイバー通信を実現させる」と、書簡で強調していることは、注目に値する。それは「日用品」という言葉が、北朝鮮ではテレビやカセットデッキなどの民需を意味するものではないということである。高級電子日用品生産とは「先端的電子軍事部品生産」ということなのである。「日用品」が軍事物資を意味するのは、別に北朝鮮の発明用語ではない。近代に於いて独裁国家で見かける言葉であって、ヒトラーのドイツでは「国民車」として開発したフォルクスワーゲンがドイツ敗戦まで一台として民需というか名称通りの「国民」に使用されることはなかったのは広く知られていることであった。

 そして、これには北朝鮮における技術というものの性格をよく見極めないと、正しい答えにならないということである。1960年代から北朝鮮がとってきた日本の科学技術の導入は、富国強兵策の明治日本のそれに酷似した体質のもとで行われたということである。それは、北朝鮮の政権党・労働党の科学技術政策の基本が「経済建設と国防建設を併進せしめ」る、ということからくる当然の帰結であった。しかし、効率は明治日本よりはるかに落ちた。

 例えば、NC(数値制御)旋盤であるが、これは1950年代にアメリカ空軍の下請け企業とMITの研究者によって発明されたものである。そして、アメリカでは軍需を主要用途にして研究開発が進んで行ったものである。たまたま、日本では1960年代後半になって富士通から電子専門のファナックが独立し、世界一のNC旋盤を造り出した。

 アメリカで軍需を主要用途として研究開発されたものが、日本では研究開発のはじめから民需の市場目当てである。その技術に、北朝鮮に限らず中国が着目した場合、日本では民需で開発されたがゆえに、軍需目的の技術情報収集だとは気付くことはない。それにその技術移転が軍事技術の移転だと思うこともない。そこのところを『産経新聞』は警鐘をならそうとしたのだろう。だから、『産経新聞』(1995年12月25日付け)の三面の見出しが「軍事近代化の一翼」というものになったのであろう。

 産経新聞によれば、食糧難にあえぎながらも最新兵器の開発に力を入れており、そのためのスパイ活動だと解説しているわけである。記事には、朝鮮総聯の元幹部が「日本なくして今の北朝鮮軍はあり得ない」と語ったと述べている。

 こういう時代の金正日の書簡は、分析に値する内容を持つことになる。だから、金正日が「世界先進科学技術を受け入れて我々の科学技術を高い水準で発展させてこそ我が国の革命と建設に生ずる科学技術的問題を成果的に解決することができる」と述べて、さらに「科学技術分野で他国との交流と協調を強化しなければなりません」との言葉は注目に値する。

 その金正日は、「海外同胞科学者達との合同研究・共同研究を広く設けなければなりません」と、科協無しに存立し得ない北朝鮮の科学技術の実状を述べている。


4:科協に於ける「ウリナラ離れ」の傾向

 湾岸戦争は北朝鮮に半導体工業の必要性を認識させた。それに、韓国の半導体工業の発展も金正日をしてあせらせたのかもわからない。

 金正日は、在日朝鮮人科学者との創造的協調の場を広く設けるように配慮する。彼等が北朝鮮の科学技術を発展させるための愛国事業に積極的に参加させろ、というのである。

 さっそく、科協との間に1992年から共同研究をすることになる。半導体工業の発展いかんが北朝鮮の産業の盛衰を左右するというのだが、要は日本からの技術導入である。

 半導体分野での北朝鮮と科協の共同研究は、この分野に携わる在日朝鮮人科学者、技術者との情報交換、研究成果の発表などを通じて、行われる。

 その第一は、半導体分野における論文、資料などを定期的に北朝鮮へ送り、科学者技術者達の研究、実験を後押しする。

 第二に北朝鮮との学術交流の場を設けて、情報交換および研究成果発表などを行い、相互の科学技術水準を少しずつ高めていく。

 第三に同一研究テーマを決め、研究・実験を行う、と言う具合に三段階に分けて進展している。これは、技術移転の典型的なパターン、常識的な足取りというか、確実に移すための努力の手法でもあった。そして、イニシアティブは技術を移そうとするところ、科協にあることは明白である。

 科協における、半導体研究のリーダーは朝大の金漢泰教授であった。金漢泰教授は多くの半導体研究のなかから「多孔質シリコンによる光発光」というテーマを選んだ。

 1992年に金漢泰教授は北朝鮮を訪ねている。それから、先ず北朝鮮の国家科学技術委員会の指導、つまり了解を求めている。次に金日成綜合大学、金策工業綜合大学、科学院電子工学研究所を廻って、具体的協議という根回しをしている。更に翌1993年に金漢泰教授は北朝鮮を訪ねているが、それは研究指導であった。

この1993年の科協の「学術講演会」は、もめたことで、少しは世間に知られた。科協は年に一回学術講演会を持っている。大会に協賛する団体が、在日本朝鮮人商工連合会、在日本朝鮮信用組合協会、朝鮮大学校の三組織であって、科協の性格も表している。

日本では主催者である科協の存在は知られてないが、協賛団体は一般的に知られている組織である。

 一般に科協の学術講演会の内容など日本社会は興味を示さない。また科協会員も研究報告は幾多の日本の学会で発表している。それは優れた科協所属の科学者は日本の大学・法人や会社の研究所に所属しているのだから、科協の大会が親睦第一の雰囲気になるのは自然でもあった。むろん、日本の学会でも特別な成果が発表されない限り、社会は関心を抱かない。

 すでに、1990年代に入るや科協に入って「メリット」はあるのか、が会員の間で議論されることになる。「科協に入ればどんなメリットがあるのか」、「科協に参加したところで何のメリットも期待できない」という、若年の科学者、技術者の声が強くなっていた。それに対し、崔在樹科協副会長は「祖国と民族の隆盛繁栄を目指して自己の知恵と能力を発揮して数々の輝かしい成果をもたらし高く評価された」ことが、科学・技術者冥利(メリット)につきると、精神論で説得した。崔副会長は、北朝鮮の「功勲技術者」として、表彰されている。自己の体験を後進に説いたのである。

 科協の「学術講演会」で、日本のマスコミが注目したのは、先に述べたように1993年のことであった。1993年の大会は7月にセミナーハウス湘南台PLUS 1(プラスワン)で開催された。この大会は、祖国解放戦争勝利40周年記念と銘打たれていた。日本では一般に朝鮮戦争で北朝鮮が勝利したとは受け止められていないが、在日朝鮮人の北朝鮮支持派の間ではそうではない。あの巨大なアメリカ軍と闘って五分の戦闘で停戦したから、勝利となる。1993年は朝鮮戦争が停戦して、40年も経過したという年の節目でもあった。

 大会の開会式のあとに「科学技術と在日同胞」というテーマでシンポジウムが持たれた。メリットはあるのかという若手の声を汲み取る必要性を感じて、持たれたシンポジウムでもあった。

 パネリストに若手が選ばれ、代表的な発言として、鄭明洙の「民族の誇りをもって」、韓尚一の「民族の心とグローバルな視点」、蔡晃植の「在日朝鮮人科学者と来日中の南朝鮮研究者、留学生との接点から想う」などが目立った提言であった。

 例えば、鄭明洙は、「我々がこの地で土台を築いて生き残っていくために、やらなければならないことは、山ほどあるはずである」と、この地、日本で研究生活を確立しようと訴える。

 次に韓尚一は「ワールドワイドな経済活動を在日朝鮮人という立場を踏まえて考える際、興味深い二つのグループが存在する。一方がユダヤ勢力であり、もう一方が華僑である」と、在日朝鮮人に北朝鮮以外に目を向ける必要性を訴える。それはインターナショナルに生きようというものであった。つまり、祖国はあっても、華僑やユダヤ人のようにその土地その土地に根を張る必要性を説くものであった。

 これらは、すでにさくらグループの全鎮植会長が北朝鮮は「国際化が欠如している」という発言に対応するものであった。さくらグループといえば、モランボンが日本社会では知られている。全鎮植会長は「合弁とは金を儲けるためだと思っている」という考えを、ズバリと述べていた人物であった。愛国ということで北朝鮮への奉仕を説くことに、かならずしも同調しなかった大人物であった。出身地は慶尚南道固城郡の出身で、同郷に許宗萬朝鮮総聯責任副議長がいる。

 すでに全鎮植は朝鮮総聯が在日の民族的諸権利の問題で「民団」に一歩遅れをとっているのではないかと、北朝鮮ばかりを向いている傾向を批判していた。この全鎮植の発言が科協の一部の気持ちをつかんでいた。

 そう気持ちを代弁したのか、蔡晃植は「南朝鮮からの研究者との交流を拡大する」ことを、現実的であるとまで、このシンポジュームで発言した。

 蔡晃植は理化学研究所の研究者であった。理研には韓国から科学者や留学生が多く見えている。韓国からの研究者と親密になることが近い将来に具体的な行動に移すチャンスを与えてくれるという。

 蔡晃植は朝鮮大学校の理学部化学科の卒業生である。卒業後、山口朝鮮高級学校で理科の教師をしていたが、玄丞培に見出され、東京大学農学部農芸化学科に、そして、農学博士号を取得する。その後、理化学研究所に入所し、除草剤の作用メカニズムの研究に取り組んだ。科協では、その経歴から、蔡晃植は次代の指導者と目されている。その蔡晃植は研究者としての原動力は好奇心だと言っている。それは、崔在樹の「祖国と民族の隆盛繁栄を目指して」というのと、ずいぶんと距離を感じさせたものである。

 蔡晃植は科協の綱領にそって、北朝鮮との共同研究を行い、訪日した北朝鮮の研究者と共同歩調をとることはやぶさかでないが、あまりにも北朝鮮から来る研究者は居ない、という。つまり、蔡晃植は、北朝鮮の科学技術発展のために、自らの力を発揮することを綱領としてきた科協の方針にしたがうのだが、その力を発揮する場がないというのであった。

 蔡晃植は、北朝鮮よりも韓国の研究者との交流の拡大を図ることが大切だと、発言したのである。つまり、若い科学者、技術者の集まる科協にするには、韓国の研究者と仲良くして、朝鮮半島統一の機運の高まりを待とうと、提案したのであった。蔡晃植は、日本で魅力ある、求心力のある科協組織を育むには韓国との交流の拡大を図るべきだと、まさに画期的な提案をしたのであった。これが、マスコミに注目されたのであった。

 これら、蔡晃植に代表される意見は「共和国の科学技術発展のために」を、建て前と捉えたのであり、建て前と本音の分離を説いたとみられた。共和国の科学技術発展のためには、日本で研究者として生きなければならない。そのために必要なのは日本の博士号である、を本音としたのであった。科協会員にとって、北朝鮮の博士学位、準博士などの必要性、表彰の重しが軽くなってきている、ということである。


5:朝鮮大学校と科協

 蔡晃植は朝鮮大学校の理学部の卒業生であるが、工学部もあってNC旋盤技術の北朝鮮移転に尽力したことで知られる。

 朝鮮大学校は1956年4月に在日朝鮮人の民族教育の最高学府として創立された。創立当初は、教職員は10名ばかり、学生数は60名で、2年制であった。そして、発足時は東京都内北区十條の朝鮮中高級学校の仮校舎に置かれた。それが、1959年には4年制に編成され、文学部と理工学部の二学部六学科となる。その年の6月に小平の新校舎へ移転する。小平は市制を引いておらず、小平町であった。

 1964年には、文、歴史地理、政治経済、理、師範教育の五学部制に改編する。その後、1967年に工学部が新設される。新設当初の工学部は電気工学科、機械工学科であったが、1969年度には金属工学科が増設される。

 この年に理学部の生物化学科が生物科と化学科に分かれた。1990年の時点で4年制7学部、2年制1学部の8学部で学生数1,500名、教職員数は260名となっていた。

小平校舎の施設は、敷地10万平方メートルのキャンパスに研究棟が三棟、図書館、創立記念館、講堂、体育館等を備えている。その中の第三研究棟が理、工学部となっている。

 その他に2年制の研究院と社会科学研究所、自然科学研究所などの研究所も併設していて、創立から35年で1万名の卒業生を出し、その内の2割が理・工学部の卒業生と見られる。

 理・工学部の卒業生は2,000名にのぼるわけだが、そのなかのかなりの人数が科協に組織されている。朝鮮大学校では、工学部が設置されてから、日本の大学、研究所、企業等に卒業生を出せるようになったという。それまでの卒業生は、どちらかというと民族学校の教員をはじめとして、朝鮮総聯の各級組織の幹部養成に力がそそがれていた。

 朝鮮大学校の自然化学部門があげた研究成果は学術論文460篇、学会発表数220件というから、これは大変少ない。もちろん、1990年の時点なので、その後は日本の学会を重視するようになっているので、もう少しは増えているのではないか。ちなみに、日本の研究者でいえば、10人分足らずの数量である。

 その原因は、教育に時間をとられることに加えて、北朝鮮との関わりに時間をとられすぎていると推測された。朝鮮大学の教官が著述した教科書、専門書の数が260巻もあり、科学技術解説書記事が200篇というから、研究以外の力を配分せざるを得ない実状がわかる。

 さきに述べたように、廉成根博士は1年間、朝鮮大学校でビナロン合成の実験を行ったが、北朝鮮の要請に対応できるように、90年代に入って電子計算機室、超伝導研究室、C1(シーワン)化学研究室、バイオテクノロジー研究室、ロボット工学研究室などの設置を進めていっている。

 ちなみに、第3研究棟には53の研究室・実験室がある。研究室のなかは、日本の大学の研究室と変わらない。

 これらの施設の建設と運営資金は北朝鮮から送られてきたということになっている。それは1989年6月の科協結成30周年で、111次にわたり、393億2,323万2,433円に達したと発表された。

 朝鮮大学校の特長として、金日成が誇ったという、外国に「自己の大学を持っているのはわが国だけである」と、北朝鮮が世界で唯一他国に大学を設置していることを自慢したことがある。

 しかし、1990年代に入り、社会主義圏が崩壊して特に湾岸戦争後において、北朝鮮の科学技術が科協と朝鮮大学校抜きに存立しえなくなってから、皮肉なことにその改組問題が内部から湧き出した、と指摘されている。以下は伝聞情報である。

 それは、朝鮮大学校の分割が考えられたと言われる噂であった。理工学部を独立させるという噂であった。それは、また在日の商工人の興味を引く噂でもあった。

 在日商工人の北朝鮮への投資、合弁企業の設立がおしなべてうまくいかないなかで、朝鮮大学校と科協が全面支援した呂永伯の国際トレーディングの成功は、それなりの説得力を持つものであった。理・工学部の大学院まで持つ大学の設立構想が商工人の眼前に浮かんだのである。それは北朝鮮も了承することと推測された。

 理工科大学が夢ならば、日本の大学と同級の研究所の設立を、規模を縮小しても作ろうとする動きになる。それは東京都の認可を受けた各種学校としての朝鮮大学校からの脱皮、日本政府の認める文部省所管の大学への発転を考えたことであった。つまり、技術移転を効率的に図るには、日本の産業政策のなかに位置づけられるネットワークに組み込まれないことには、どうにもならないことがようやく商工人達が理解してきたからでもあった。

 朝鮮大学校は美濃部亮吉都知事のとき、都知事の献身的な努力があって、在日朝鮮人の民族教育の正常な発展を保障しようということで、各種学校として認可が与えられた。それには金炳植が旧姓二高出身だったことが大きく幸いしている。美濃部都知事も旧制二高出身であった。金炳植は朝鮮総聯の副議長を勤め、一時期議長の韓徳銖と権力を分けて、「韓・金」時代を築いた。そして、今は北朝鮮の国家副主席である。(註:本文執筆当時)

 朝鮮大学校の民族教育とは、「我々は朝鮮民主主義人民共和国の公民」であるということを縦糸にかたちづくられている。しかし、その教育では北朝鮮に帰ることはできても、日本で生活することが難儀になる傾向があった。それでは、北朝鮮の要請する日本からの技術移転を保障することはできなかった。北朝鮮のビナロン合成事業に多大な貢献した廉成根博士は、日本の大学の教育を受けた、そしてその博士号取得に見られるように日本の科学技術教育体系が育てた学者であった。

 1991年4月に合弁工場の操業を開始し、合弁の成功例に数えられる、呂永伯の希土類生産の中心を担った研究者は東工大の大学院の原子力工学科に学んでいる。彼は朝鮮大学校の卒業生であるが、その学歴に留まっていたのでは希土類生産技術の日本から北朝鮮への移転で中核的役割を担えたであろうか。やはり、進んだ日本技術のネットワークの中に籍を持っていたことが大きかったのではなかろうか。

 そして、近年は朝鮮大学校卒業生の中から、日本の大学の大学院進学希望は増えてもいた。

 しかし、この朝鮮大学校から理工系を分離して、大学院まで持つ、日本の文部省所管の大学設立構想は夢と消える。それは、その構想のなかに「ウリナラ離れ」のにおいをかぎつけ、本国が同意しなかったと、今では推測されている。むろん、日本の文部省も積極的に支援しなかったことが響いている。

 日本の文部省所管の大学になっても、金日成へ忠誠は誓います、またそのことの方が北朝鮮の近代化のために力を発揮することができます、と訴えても、金日成の誇りである北朝鮮は唯一外国に大学を設けているという言葉に、かげりを出すことであった。さらに、朝鮮大学校を通して、北朝鮮のなかに文部省の科学技術教育制度が入ってくる。ひいては、通産省の産業政策に組みしかれていくことは、火を見るより明らかだと、感じさせたのではなろうか。この好機に文部省には北朝鮮のなかに入っていく対応を見出せなかった。日本政府の無策が結果として、科協の「ウリナラ離れ」の流れを押さえることとなった。


6:科協の支部活動に見る「愛国」活動

 構成人数は千名を越すと自称する科協であるが、会費納入会員数は700人を少しうわまわる程度と推測される。そのなかで、科学者となると300名前後で、日本の博士号取得者は、その半分から120人の間、120人以上ということであろう。これは、日本に数多く見られる小さな学会と同規模で、日本人の研究者は「親睦団体」とみている。内容的には、北朝鮮への「技術移転研究学会」であろうか。

 日本の数多い学会と同じく地域支部が組織されていて、科協の支部のなかでは大阪、東京、東海、神奈川、西東京支部などが、常任理事会が正しく組織されていると報告されている。

 正しく組織されているということは、支部単位の学習会が正しく行われているということである。その学習内容であるが、金正日から送られてきた書簡を勉強する。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」を再確認していく。それから、支部常任委員会は「敬愛する将軍に従い学ぶ一大学習運動」を大衆規模で行う。そのためにも、科協構成員の仲間意識「異国」での民族意識を固めていくために「野遊会」は欠かせない。

 支部のなかでは大阪支部と東京支部の活動が注目される。科協東京支部の活動を見ると、新入会員の歓迎バーベキュー大会を飯能市まで出かけて、行っている。飯能市の高麗川の川原がバーベキューの適地であった。それに、高麗川という地名が朝鮮人を引きつけるのである。その地名には歴史があり、近くに高麗神社がある。関東に於ける諸々の在日朝鮮人団体は、野遊会の舞台に高麗川の川原を選んでいる。それは、朝鮮人が古代からこの列島に移り住んだあかしの地でもあるから、心に安らぎを覚えるのであろうか。

 大阪支部の活動といえば、支部活動のトップに挙げられるだけに、北朝鮮の科学技術との関わりが深い。国連開発計画(UNDP)は、発展途上国の科学技術発展のため、多国間技術協力と経済投資に先立つ条件整備のための援助を行う機関であるが、平壌情報センターもそれに助けられた。平壌情報センターは1989年から情報処理部門のプロジェクトが推進され、1991年には大阪支部の李亮銀がUNDPの技術顧問として指導にあたった。また、平壌情報センターから研修生が李亮銀の大阪情報コンピュータ専門学校にきている。

 この大阪支部の野遊会といえば、大阪城公園でのバーベキューが知られている。大阪城は秀吉を通して朝鮮半島との関わりも深い土地である。

 そして、大阪支部のとなり、京都支部の活動は停滞していると伝えられているが、月一回の常任理事会と、野遊会は開催されているというから、普通の支部活動とはそういうものかも知れない。

 その普通の支部のひとつと見られる東北支部は、1994年の学術報告会が松島で開催されたとき、それを支えた。このときの学術報告会に西沢潤一東北大学学長があいさつしている。それは殖民地宗主国の国立大学学長としての矜持でもあった。東北大学といえば、北朝鮮の国家副主席金炳植がその教養課程(旧制二高卒)に学んでいる。

 金炳植は旧制二高生の時代から活動家であり、東北大学に昭和20年代に学んだ朝鮮人の大半は共産主義の運動に関わり、帰国者を多数輩出した。しかし、その大半は北朝鮮へ帰ったあと、金日成により宗派主義者として粛清されたと伝えられている。彼等は旧制二高生の時代から寮生活を通しての仲間意識で結束していたから、帰国後北朝鮮各地に分散させられても、特に医師の場合は各都市に配置されたのであろうが、相互に連絡をとって情報の交換を行った。特に伝染病から、カシンベック病などの風土病の研究などはデータをとっての情報交換、分析を行った。それが北朝鮮労働党は国内にスパイ組織みたいな、労働党ぬきの情報交換などゆるされる情況のない国だけに疑いを受けたのではなかろうか。

 支部の人数で言えば、神奈川支部の活発な活動は知られているが構成員は20名程度といわれている。その神奈川支部は、よく学術報告会の開催を支えた。話題を呼んだ1993年の大会も、そして1995年の開催も神奈川県下であった。

 神奈川支部は、北朝鮮の社会主義建設支援のための各種見本品と技術資料を送る事業では朝鮮総聯県本部を支えている。ここの支部の特長は化学技術に強いことだといわれている。その特色は神奈川県の産業の反映でもあったろう。


7:1995年の「基調報告」に見る科協の今後

 1992年、1993年の科協のシンポジュームには、ある熱気があった。その熱気は1994年からうすらいだようだ。もちろん、金日成の死去もからんでいる。それに、世界に生きる在日朝鮮人を育てる考えを支援する、さくらグループの全兄弟のあいつぐ死去が重なったことが大きい。なかでも歯に衣を着せずに発言した全鎮植の死んだ意味は深い。

 そのなかで、1995年の「基調報告」が注目されるのは、その後の朝鮮総聯17回大会の綱領改定で「我々は社会主義祖国を熱烈に愛し、毅然と養護し、祖国との合営、合作と交流事業を経済文化、科学技術の各分野で強化して、我が国・我が祖国の富強発展に貢献します」とされたことが、科協の意見を入れたと見られるからである。

 その「基調報告」は金正日の「書簡」を高く頂くことからはじまり、科協の歴史を述べ、千里馬の建設に協力し、朝鮮総聯系商社の貿易活動から、北朝鮮の経済技術代表団への幇助事業にはじまる1960年代の寄与について、1970年代も1980年代も北朝鮮の建設に尽くしたことまで言及している。

 在日朝鮮人の科学者や技術者が科学技術書籍と機材の見本を北朝鮮に送る運動は1980年代に引き続き、科協全員と在日朝鮮人を網羅した大衆運動に大きく発展したと、その貢献を誇っている。

 そして、それを受ける北朝鮮の科学者から「この様な科学技術書籍と資機材、見本品は祖国の科学者、技術者には砂漠で泉のように貴重なものでありました」と、感謝されたことも合わせて報告している。

 これは、正直な記述で、そこにウソはないと思われる。北朝鮮の科学技術界は砂漠だということは、我が祖国には何もないとの報告である。つまり、日本からの情報なくしては、北朝鮮の科学者・技術者は生きていけないというのである。

 そして、科協の今後は北朝鮮の科学者との共同研究の分野を広めて深めるという。これは最早北朝鮮の科学と技術は、経済大国日本の「科学技術の発展水準が高い日本で生活している立地条件をあまねく利用」できる立場にある科協の指導下に置かねばばらないと、いうことであろう。
(ここまで1997年3月2日 記)


8:あとがき

 これは今から10年前に書いた「弁明書」である。当時の南牛は北朝鮮の産業スパイ組織(カーギー)と繋がっていると目され、ソウル留学中(研究者として)の八王子から、心配される電話を頂いたのが1995年12月25日であった。「『産経新聞』紙で指摘されている研究学園都市在住の産業スパイとは、南牛を指している疑いがあるから、身辺に注意するように」との温かい言葉であった。思わず、涙が出た。今、思いだしても八王子の励ましの言葉には涙腺を緩める。

 南牛は研究者生活の大半を鉱公害対策、処理技術の確立のために費やした。産業で言えば、下流を構成する技術である。一般に、秘匿が要求されるのは上流であり、下流など「秘匿」すれば、それこそ犯罪行為であろう。

 鉱公害対策に付いては、産業・技術史から地誌的調査、社会学の分野など、極めて広範囲に及ぶ知識が求められる。南牛の代表的仕事に廃油ボール生成の研究がある。フィリピン近海から黒潮と対馬暖流に沿って流れる廃油ボールの生成を研究したことが日本海の汚染に目を配る切っ掛けとなる。それに伴って日本海の漁業に関心を抱き、長州の捕鯨業、佐渡の烏賊釣り業が咸鏡南北道沿岸部の近代的漁業開発に繋がった経緯を知ることとなる。むろん、野口遵が関わった興南以下の「北鮮開発」を調査することとなる。

 科協の歴史を述べて、その内容に鉱工害対策に関わる研究・技術の移転が含まれてないことに気付かれたと思うが、南牛は日本窒素に付いての調査から、興南の現状に目を配った理由に帝国の遺産の上に成立している北朝鮮の工業に関して、公害の発生を憂慮したことが背景になる。折からの第三次七カ年計画の挫折に気付き、「興南再開発構想」を90年代に入るや設立されたばかりの「東アジア学会」で発表したことも、帝国の遺産を動かしていれば公害の発生は避けられないと判断したからである。これが科協の会員に注目され、交流の機会を得た。それは興南の公害の現状を把握したかったから、南牛が求めた交流であった。

 だが、この間に科協側から公害発生に関わる情報を得ることはなかった。逆に、北朝鮮の山河がたぐいまれに「清い」ことを知ったのである。むろん、検徳鉱山の鉱害、豆満江の汚染を知るが、豆満江汚染の大半は赤色支那側からの垂れ流しによるものである。

 そして明白なのは私の研究者としての知識は何ら北朝鮮の現状と関係のなかったことである。産業スパイの疑いを掛けられても、それは北朝鮮の鉱公害を調べている姿でしかなかった筈である。

 大同江の水が有機塩素系農薬の痕跡一つ残していない現状では、南牛が90年代に関わった環境研究の成果など北朝鮮は何ら必要としてなかったのである。しかし、この大同江の水が、清浄だということは大きな問題であろう。隅田川、洛東江から漢江あるいは揚子江下流域の水を採取してみれば、大きな違いを発見するであろうからだ。北朝鮮がアジアの経済発展から真に遅れていることは、南牛の研究成果など必要としないことで明白であった。南牛の技術範囲を知る同僚は『産経新聞』紙の報道を笑ったものである。しかし、世の中にはよこしまな人物がいて南牛の足を引っ張ったことは事実であり、その結果、科協が関わった北朝鮮への技術移転と南牛は何ら関係が無いことを明らかにする必要性を感じて書いたのがこの「弁明書」であった。今、北朝鮮のミサイル連射、核実験は在日朝鮮人社会に冬の時代を迎えさせている。韓流ブームが少し薄めているが、在日朝鮮人は冷たい目だ眺められているだろう。それは在日朝鮮人の自尊心を痛く傷つける行為だ。

 山浦嘉久は、北朝鮮が核保有国でない日本には参加資格がないと決めつけたことに、「あたかも平壌は、わが国に対し、核武装論に真剣に取り組めとの変化球を投げかけ」たのだろうと分析した(「終焉に向かう米国の中東支配」『月刊 日本』平成18年12月号、83頁)。南牛は、この山浦嘉久の度量の大きさに学びたい。旧ソ連、赤色支那の核武装の淵源は帝国にあった。今、北朝鮮の核武装が日本からの技術移転でなされたのなら、これら三国の核武装を支えたのが額面通りに日本の技術ならば、その日本は核武装出来ない筈が無い。日本は金正日の投げた球を率直に受け止めて核武装の道を選択すべきであろう。

 さらに日本はその度量の大きさで、科協の存在と活動、朝鮮大学校での民族教育が朝鮮半島と日本を結んでいることを認め、ツールとしての科協の存在に注目すべきであろう。つまり、山浦嘉久の受け止め方こそ、日本人の矜恃したい北朝鮮核実験への対応ではなかろうか。科協も朝鮮大学校も、一部では「日本の宝」だと指摘されているが、日本のカネが投入されず、日本の法律が全面的に律してない現状では、磨かれてない状態であろう。玉は磨かれて宝石になる。

 ここに来て、一橋文哉というジャーナリストの一文を目にしたのだが、奇異の念にかられる文章であった。その内容に事実関係の誤りを幾つか見付けたこともあるが、この一橋文哉の「北朝鮮核兵器を支えた日本の科学者1321人リスト」(『新潮45』1月号、2007年)は、ウラジミール氏が独創的に切り開いている「科協研究」を真似ていることに気付いたからである。「剽窃」とも採れる箇所もある。むろん、南牛の「科協と朝鮮大学校」を論じたこの一文にも間違いはあろう。それに引用文献を明らかにしてないので、よく知る方からは「剽窃」だと疑われるかも知れない。しかし、南牛は他者のオリジナリティを犯すことはしてない心算である。引用文献を明らかにしなかったのは、一橋文哉的ジャーナリストを警戒したからである。

 情報に数字を付けて、自己の発信した情報を追跡する「手法」を故西野辰吉に学んだ。天下のNHKは、その西野辰吉の著作から無断転用しているが、苦笑していた。南牛も同じ手法を使ったところ、『週刊文春』誌が無断借用した。日本が赤色支那、韓国へ、その知的財産権侵犯を問うときには、自らを律するものがあるはずだ。

2006年12月22日 南牛 安部桂司 記
(本文敬称略)
  

 
 
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