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金正男ミステリー第2弾 金正日・金正男、愛憎の父子関係
(新東亜2001年7月号記事より。Vladimir訳)
金
正男事件の核心は、彼が北朝鮮内でいかなる存在かという点だ。彼の位相がまさに、彼の役割を規定するためだ。しかもこれは金正日の後継構図とも連結する問
題だ。これについては二種類の解析が交錯する。まず金正男は頭の腐ったならず者であり、ミサイル輸出の責任者や情報通信産業の総責任者など、何らかの役割
をするということ自体が不合理説という主張だ。二番目は長子論だ。誰が産んでも長男を無視することができないために、金正男は今回の恥さらしにもかかわら
ず、まもなく現業に復帰するはずだ、との主張だ。
チェ・ヨンジェ<東亜日報新東亜記者>
朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者、金正日の長男、金正男をめぐる気がかりな問題はいまだに解けていない。
5
月1日、彼が日本で逮捕されて以来、日本政府は金正男の指紋を確保し、逆追跡調査を行っている。日本の法務省と外務省は東南アジア諸国はもちろん、米国、
フランス、カナダなど、金正男が偽造旅券で日本入国ビザを申請する可能性のある国の日本大使館や総領事館に、金正男の指紋を送って詳細な調査を指示したこ
とが伝えられた。
日本の「読売」新聞は5月18日付けの一面トップ記事をつうじて「金正男が5月1日に日本に不法入国
しようとしたのは、ミサイル販売の代金を運搬するための目的だった可能性が高く、金正男は金正日の指示を受けるミサイル販売責任者である可能性が高い」と
報道した。この日、「朝日」新聞も「金正男が偽造旅券で米国へ行った可能性が高い」と伝えた。
すでに金正男追放事件が
おきる前に発売された香港の時事月刊誌「広角鏡」も、4・5月号で「モスクワとスイスに留学した金正男は、コンピューターに精通しており、日本語の学習の
ため日本にも行くなど西側世界を往来し、現在は軍部内の秘密警察部隊である人民軍保衛司令部の要職を担当していることが伝えられた」と報道した。
またこの月刊誌は「金正日委員長が上海および北京を訪問する際、金正男が秘密随行するなど、長男としての彼の存在が順次浮び上がっていることが伝えられた」と伝えた。
5月1日の金正男事件がおきる以前から、北朝鮮の動きに利害関係を持っている国際社会は、すでに金正男の存在と彼の最近の行為を綿密に追跡していたことだ。このような報道は新東亜6月号の「小さな将軍、金正男の秘密行為」記事を後押しするものである。
中国での金正男の痕跡 日
本の捜査当局は、金正男の指紋を土台として彼の行跡をじわじわ解明している。そのような渦中に、金正男が東京・赤坂の韓国酒場「金剛山」で、自分を在米同
胞だと言いながらお金を気前よく使ったという情報提供が出てくることもあった。日本の捜査当局は、韓国酒場で仕事をする韓国人女性従業員を相手に、金正男
の「痕跡」を継続して追跡している。
中国でも金正男の痕跡は現れている。金正男一行が成田空港で逮捕、追放されたとき、テレビを通じてこれを見守った北京の韓国人と朝鮮族社会では、なじみのある顔という多くの反応が現れた。
北
京・朝陽区の韓国商店が密集する通りにある韓国食品店「ソウルマート」主人は、「金正男一行のうち、日本政府が夫人として発表した、ぼってりした女性(シ
ン・ジョンヒ)は、頻繁に店にやってきた上得意」とし「昨年は赤いBMWに乗って来て、味噌などをたくさん買ったので、家族が多いのだろうかと考えた」と
語った。
また北京市内の昆侖ホテル内の韓国飲食店である「新羅」でも、金正男が得意客だったという。
金正男事件の核心は、彼が北朝鮮内でどのような存在かという点だ。彼の位相がまさに彼の役割を規定できるわけだ。しかもこれは金正日の後継構図とも連結する問題だ。これに対しては二種類の解析が交錯する。
最
初に金正男は頭の悪いならず者で、ミサイル輸出の責任者や情報通信産業の総責任者など、何らかの役割をするということ自体が不合理説という主張だ。この解
釈に従う彼らは、金正男の東京への密入国はいかなる任務を遂行するための訪問でもなく、単純にディズニーランドに遊びにいくためのものだ、と分析する。
二つ目は長子論だ。誰が産もうが、儒教伝統が支配する北朝鮮社会では長男を無視することができないため、金正男は今回の恥さらしな行為にもかかわらず、まもなく現業に復帰するはずだ、との主張だ。
正男をちやほやした金正日 金正男の存在を知るためには、出生以後から現在までの金正日と金正男の父子関係を注意深くみることが必要だ。
金正日には長男、金正男がはじめから堂々と提示することのできる存在ではなかった。金正日が人妻の成恵琳を連れて生活したことからして、北朝鮮では極秘事項だ。
金正男の生母である成恵琳の最初の夫はイ・ピョン(当時、金日成総合大学の研究者)で、舅は作家同盟委員長の李箕永(越北)だ。日帝時代、カプ(KAPF)を代表した有名作家の李箕永は、金正日が自分の息子の嫁を強奪すると、これに抗議する意味で以後、生涯絶筆した。
北
朝鮮社会は社会主義思想がいかなる国より濃厚な共産国家だが、伝統儒教文化圏の倫理観が強調されている。北朝鮮政権の創始者である金日成主席自身も儒教教
育を受ける。このような父の下で、金正日は極秘裏に成恵琳と生活し、自然に息子である正男の存在も初期には公開することができなかった。
金正日は、金正男が産まれた事実を金日成にも隠した。この問題で金正日と成恵琳はいつも争った。成恵琳は金日成に正式に話して、息子の嫁として堂々と認められたがったが、金正日はこれを防がねばならない境遇であった。成恵琳が神経性疾患にかかったのも、このためだ。
当
時この問題で、金正日の妹の金京姫が成恵琳に対し、金正男を自分が育てると提案したこともあったのだが、成恵琳は受け入れなかった。金正男を奪われれば自
らが立脚する場所がなくなるためだ。このような争いは成恵琳の病気を加速した。さらに金正日が金英淑と結婚し、高英姫ら他の女性と生活を整えると、成恵琳
の病気はより一層悪化した。
金正日は成恵琳の存在を隠すため、軍保衛司令部(司令官・元応煕)要員をモスクワに送り、
金正日と成恵琳の関係をすこしでも知っている留学生を満遍なく呼び入れた。北脱出者金ギルソン氏の手記には、自分がなぜ国家保衛部に捕らえられていったの
かが出ている。彼の罪目は、私席で金正日と成恵琳の関係を話した、ということである。北朝鮮では金正日と成恵琳の関係を知っていること自体が罪になるの
だ。
75年に、金日成に存在を知らせて 金
正日が金日成に大きな孫、金正男の存在を初めて知らせたのは、金日成の担当看護婦が金日成の息子「金賢」を産んだ頃だった。父がひっそりと子どもを産んで
いるので、金正日は自分にも「子ども」があるという事実を遠まわしに知らせたのである。このときが1975年ごろであった。金日成は、はじめはこの消息を
聞いてうろたえていたが、すでにひっくり返った水であり、可愛い孫が生まれたことを非常に喜んだという。
故・李韓永氏
(97年に殺害)によれば、金日成は金正男が住んでいる官邸には来なかったという。そこで1975年以後は、おじいさんを見るために金正男が主席宮に行っ
た。父母と手を結んで行くか、あるいは金日成が金正男をさがす時は、副官と一緒に行くのを見たことがある、と李韓永氏は証言した。
初めての孫だけに、金正男に対する金日成の愛も大変なものだった。ひとつの逸話がある。金正男は銃を非常に好み、いつか金正日がベルギー産の拳銃を与えると約束した。約束した日に拳銃が到着しないので、金正男は腹が立ってご飯も食べずにずっと泣きつづけたという。
そ
んなとき、金日成と金正日が通話する途中で金正男の話が出た。金正日が約束を守らなかったために正男が泣いていると言うと、金日成は「大変なことになった
なあ。わかっている。私がなだめてあげよう」と語ったという。金日成はその時、外国の国家元首に会っていたのだが、談話中に金正日に急いで相談することが
あったため電話したとき、この話を聞いたのだ。
金日成はその国家元首に「私の孫がどういうわけか怒って、ご飯を食べていないのです。私が行ってなだめてこなければなりません。私たちはご飯を食べるので、午後に会いましょう」と話したという。
訪問客を送りだした金日成が金正男を主席宮と呼んだ。金日成は金正男に「おじいさんが、約束を必ず守ってあげよう。銃を遅くなって持ってきた人は、このおじいさんがこらしめてあげよう」とし、金正男をなだめたということだ。
こうして秘密に育てられた息子だが、金正日はこの世のどの父親よりも、幼い金正男を愛した。金正男を直接育てる母方のおばあさん、金ウォンジュ氏と叔母の成恵瑯氏を優待したのも、このためだった。
金
正男の姨従四寸である李韓永氏の証言によれば、金正男が三歳か四歳の頃、おしっこしたいといえば、金正日が牛乳ビンを持って息子のおしっこを直接取りにき
たということである。金正日は一人で食事するとき、5、6歳までは金正男を食膳の上にあげて食事をした、という話まであるほどだった。当時、食卓の上に
座った金正男は「パパ、おいしい?」など愛嬌のある語り口で、金正日の度肝を抜いていたという。
金正男の誕生日の行事だけを見てもわかる。金正男の誕生日は5月10日であるものの、毎年4月中旬には護衛司令部2局9部で、金正男の誕生日の贈り物購買団を外国に派遣するということだ。李韓永氏はその贈り物の購買額が100万ドル程度だった、と証言した。
金
正日は、金正男が生まれた1971年からスイス留学する時まで、男やもめのように金正男だけを脇に挟んで寝ながら「15号官邸」を離れることがなかった。
留守にするときは出張へ行くとし、息子の正男に帰れない理由を知らせた。息子が父を待ち、心労をかけるのを心配したからだった。
金正男が三歳なった頃から、金正日には金日成が定めてくれた女性(金英淑)がおり、また高英姫と同様なほかの女性もいた。
金
正男が十歳の時である1980年、スイスに留学することになると、金正日は娘を嫁がせる母親よりも悲しんだという。金正男の家庭教師だった成恵瑯氏によれ
ば、金正日は酒を飲んで子どものように泣いたということだ。1980年3月、金正男がスイスのジュネーブに到着した後に、金正日は毎日のように金正男に電
話をかけた。成恵瑯氏によれば、この父子は懐かしさゆえに電話線を通じてお互い泣いたという。
金正日の女性と子ども 北
朝鮮では、公式では金正日の○○宅と呼ばれる女性を夫人だと見ればよい.現在○○宅と呼ばれるのは金英淑、高英姫、そして名前が確認されない○○宅がい
る。彼女らは三名の正室と見ることができる。概念上では金英淑は公式の「王后」、高英姫と○○宅は「嬪」とみればよい。金正男の生母、成恵琳は公式の夫人
の概念には組み込めない同居女性と見ればよい。わが国の情報機関が確認した金正日の女性たちは次の通りだ。
成恵琳(同
居女性):成恵琳は金正日の初恋の相手であり、長男である金正男を産んだという点で意味深い。1968年頃、金正日は労働党宣伝煽動部文化芸術指導課長で
あり、映画製作を指導しながら映画俳優、成恵琳に会った。当時、成恵琳は娘一人を持つ人妻なのに加え、金正日より五歳年上であった。成恵琳はソウル師範大
学付属国民学校を卒業し、プンムン女子中に通い、父母と一緒に越北、1960年に平壌演劇映画大学を卒業した。
1960
年代の北朝鮮映画界を牛耳った女優は成恵琳、禹イネ、金賢淑だった。当時、韓国はムン・ヘ、ナム・ジョンイムなどが人気であった。成恵琳は美人であること
にくわえ、礼節に明るいので彼女を嫌う人はいなかった。やさしいソウル方言で、大学通学時から男子の人気が高かったという。
しかし成恵琳は、初めての夫であるイ・ピョンとの結婚生活が順調でなく映画にだけ没頭し、その隙間を金正日がほじくって入っていったのである。
金
英淑:金正日の正式の夫人だ。金正日が成恵琳と同居しているという事実を知らなかった金日成は、「三十歳を越えるというのに妻をめとる考えもない」としな
がら、金正日をせき立てた。1974年、金正日は金英淑と急いで結婚式を挙げ、まもなく娘を産む。金日成ははじめには金英淑が産んだ娘
、雪松を初孫と思っていた。「雪松」という名前も金日成がつけたものだ。
しかし金英淑が正式の夫人とはいっても、西側世界でみるようなファーストレディーには程遠い。金正日と20余年をともに過ごした成恵瑯氏によれば、中央党の金正日執務室のタイピスト出身である金英淑は、どこの招待所でも見られる管理員の水準でしかなかったということだ。
金英淑の人格や人柄がそうだというのではなく、金正日がそのように評価したということである。それだけ金正日の眼中にはない女性だったということだ。
1974年生まれの長女、雪松も金正男のように平壌の小学校に通わず、官邸で家庭教師について勉強した。雪松の高等学校課程も、一般の学校は勉強しなかった。金雪松を教えた家庭教師が、黄長燁の夫人の朴スンオクだ。
朴
スンオクは二代にわたり金正日の家で家庭教師をした。朴スンオクは金日成のおいで、平壌演劇映画大学と社会安全部高級軍官学校でロシア語の教官を勤めた。
金正日がこのように二人の子どもを平壌の一般学校に送らなかったのは、内部の秘密が外へ流出するのを防ぐためだったという。
高英姫:金正日の愛妾でダンサー出身だ。いわば金正日の「喜び組」であったが、固定パートナーになったのである。高英姫は北送在日同胞・高泰文の娘だが、年齢の幼いうちに日本から父母に従って北へやってきた。高泰文は北朝鮮柔道の創始者だ。
金
正日が高英姫を家に連れてきたのは1976年頃である。金正日のパーティーで金正日のそばに座った高英姫は、1977年からはパーティーに出席しなかっ
た。ついに暮らしを固めたのである。金正日の官邸のうち、蒼光山官邸が高英姫のものとなった。高英姫はこれまでの金正日の女性のうち、最も寵愛を受けてい
るということだ。
高英姫は1981年に息子、金正哲と次男の金○○を産む。現在、金正日が最も慈しむ息子が金正哲であると知られている(スイスに留学)。北朝鮮専門家らは、かりに北朝鮮が再び世襲体制に入るならば、金正哲が後継者になる可能性が高いと語る。
○○宅:息子を一人産む 林ギョノク(金日成総合大学語文学部出身):○○宅と呼ばれないが、息子が一人いる。
この外にも名前も知られていない女性が少なくない。これは金日成も同じであった。金正日が高校~大学の時期に、金日成主席官邸で仕事をする女性服務員を自主劫奪することで問題になり、当時の金正日の宿舎には女性服務員を配置しなかったという話もある。
北
朝鮮では金日成、金正日の特閣に配置される女性が少なくない.。特閣は各地方の名勝地にある一種の別荘で、この女性たちは特閣に勤めることを大変な栄光と
感じる。特に金正日の秘密宴会に参加すれば、本当に大変な栄誉とみなすのだが、高英姫・林ギョノクが酒のパーティー出身の女性たちだ。秘密宴会は70年
代、80年代に絶頂を迎えたが、90年代に入っては弱まった。医師が金正日の健康に注意を与えたためだ。
「新東亜」は
米国のある北朝鮮専門家から、金正男が父の金正日と一緒に暮らした「15号官邸(北朝鮮ではいち・ご号官邸と呼ぶ)」の図面を入手した。金正男の叔母であ
る成恵瑯氏と、金正男の姨従四寸である李韓永氏の証言によれば、金正男は15号官邸で金正日、母親の成恵琳、叔母の成恵瑯、母方の祖母、金ウォンジュと一
緒に成長した。この図面は成恵琳、成恵瑯姉妹が1996年、モスクワで脱出を試みる頃、モスクワ現地で把握された内容である。5年前のものであるがゆえ
に、各空間の使い道は変わったものの、構造はそのままである可能性が高い。
金正日はさまざまな場所にある官邸を使用す
るが、平壌中心街にある中城洞15号官邸が中心官邸だ。この15号官邸は、金正日の中央党執務室と地下道で連結している。エレベーターに乗って地下
100m程度おりて行けば、執務室と通じる地下道が現れる。この地下道を金正日は運動がてらに歩いたり、自転車に乗って行くこともある。地下道は大理石で
作られており、幅は4~5m、高さは3mほどだ。官邸から金正日の執務室までは、歩いて6分ほどかかるという。
金正日の生活の家「15号官邸」 もともと100坪規模だった中城洞15号官邸は、1973年に500坪に拡張され、1978年に1年間の工事を経て現在の2000坪規模に建て増しされた。金正日と金正男、成恵瑯、李韓永、金正男の母方の祖母、金ウォンジュ氏は70年代いっぱいを15号官邸で生活した。
80年代には成恵瑯もモスクワへ行き、金正男もスイスやモスクワなど外国に留学したため、金正日は空き家のような15号官邸を利用しなかった。この当時に金正日は二人めの息子、正哲を産んだ高英姫が住んでいる蒼光山官邸を利用した可能性が大きい。
82
年、李韓永氏が韓国に脱出した以後も、15号官邸はずっと成恵瑯氏と金正男、成恵琳、母方の祖母の金ウォンジュ氏が居住した。金正男はジュネーブとモスク
ワに留学していたが、一時的に帰国すればこの家に泊まった。80年代にモスクワで治療を受けた成恵琳が平壌へ帰ってくれば、金正日もその都度この家に泊
まった。
1989年7月、平壌で13次世界青年学生祝典が開かれたとき、たまたま成恵琳が平壌に来ていたために、金正
日はこの「15号官邸」に居住して祝典を陣頭指揮した。1990年まで金正日はこのような方法でこの家に住んだが、成恵琳が再びモスクワへ戻ると、金正日
はこの家と縁を切ったことが伝えられた。
李韓永氏と成恵瑯氏が出版した本の内容と「新東亜」が入手した図面を合わせてみれば正確に合致する。この官邸の特徴は大応接間、大型娯楽場など大きな部屋の壁ごとに、本がぎっしりと収められているという点だ。
母方の祖母が蔵書を整理 こ
の官邸にある金正日の書斉は、梯子を使って本を取り出さなければならないほど、本がいっぱいである。15号官邸は単層で、床から天井まで高さが7~8mに
なる。この官邸の蔵書を分類し整理していた人は、金正男の母方の祖母である金ウォンジュであった。金ウォンジュは労働新聞国際部長を経たインテリ出身。彼
が幼い外孫子、金正男を育てるためにこの家にやってきて、まず最初にしたことが15号官邸に蔵書を設けることだった。本は分期ごとに金正日が日本と韓国の
出版目録を見て、抱えながら入れた。金正日は自分の車にに本を積んできて玄関から"おばあさん!おばあさん!"と呼び、金ウォンジュを探したということ
だ。
金正日は15号官邸のこの蔵書のおかげで、父の金日成に大きく点数を取ったことがある。ドイツの女流作家 ルイーゼ・リンザー(Luise
Rinser)が初めて北朝鮮にくるといううわさがあったとき、金日成はあらかじめ作品を読んでみるために息子にルイーゼ・リンザーの本が北朝鮮にあるの
か尋ねた。本は学習堂(中央図書館)にも非公開図書室にもなかった。金正日は金ウォンジュに電話をかけた。本は官邸にあった。金ウォンジュは自分が几帳面
に分類して官邸に整理しておいた本をすべて記憶しており、金正日はまさにこの本を金日成に渡すことができた。
図面に見
える大型娯楽室は金正男の保育所だが、規模は300坪ほどになる。この空間は柱がなくぱあっと広がっており、運動場のような感じを与える。娯楽室のまん中
には、この頃の言い方でいうポケットボール台があり、四方の壁には電子娯楽機がずっと並んでいる。金正男の幼少期、娯楽室は5月10日である彼の誕生日を
基準として、毎年新しい遊び道具で完全に変わったという。彼が新しいおもちゃをちょっとづつ触ってみるだけでも、一日以上かかったということだ。
300坪の大型娯楽室 金
正男の誕生日の贈り物が到着すると娯楽室に陳列されるのだが、誕生日当日までは見せてもらえなかったという。金正男は5月10日、元帥服を着て名誉衛兵隊
を査閲したのち、金正日と手をつないで娯楽室に入って贈り物を見回すのだが、金正日はあらましを見て回るけれど、金正男は一つ一つを触ってみて、動かせて
みるということだ。
その日の15号官邸では、金正日と知り合いたちの集まる昼食会が催され、大人たちが繰り広げる誕生日祝賀パーティーには酒が加わり午後三~四時まで続くのだが、そのあいだ、金正男は副官や警護員とともに娯楽室でおもちゃを持って遊んだという。
こ
の官邸では、韓国のテレビを見ることができる。開城の受信塔で韓国の電波を捉え、平壌中継塔ヘ送り、そこから金正日の官邸と執務室に電波を送るものだ。李
韓永氏の証言によれば、官邸では娯楽室など行くところどころで、テレビをつければ韓国のテレビプログラムが現れた。日本のNHKとウラジオストックで送出
するロシア放送も見ることができた。
金正日がこの官邸の正門を通過すれば「先生が帰ってこられます」と連絡してくれる。官邸のなかでは随行員や管理員は金正日を先生と呼んだ。正門を通過して玄関までやってくるにも暫くかかるほどである。
見るだけで半日がかり そ
こで、官邸内の清掃要員や管理要員たちはゴルフ場で乗るバッテリーカーを利用する。李韓永氏が家の中を見るだけで半日がかかったとすれば、その規模を察す
ることができる。このなかで、金庫室がおもしろい場所である。金庫室は図面で見るのと同様、金正日の書斉をつうじて入っていくようになっている。李韓永氏
は、この金庫室には金正日と成恵琳が使用する以外に、金正男の金庫など合計5つほどの大型金庫があったと証言する。このうち、金正男の金庫には弾丸が入っ
ていない各種の拳銃と、金正日がプレゼントした宝石やお金、金塊が入っていた。
15号官邸は二重コンクリートの垣根で
保護されている。一番内側の垣根のなかに官邸があり、垣根と垣根との間に附属の建物がある。二階建てのこの附属建物には、理髪所に裁断室と呼ばれる洋服
部、そして管理課長室がある。官邸の垣根は高さが4mになるうえに、その上に電気鉄條網が張られており高圧の電気が流れている。それゆえに垣根の外に兵士
を立たせる必要がないらしい。
官邸中には医務室もある。李韓永氏の証言によれば、当時(1980年初め)には医師はお
らず、看護婦だけが2名配属されていたという。看護婦たちは予防注射シーズンになれば予防注射を接種し、金正日と成恵琳が服用する薬品も管理した。図面に
出てくる薬室に行けば金正日と成恵琳が服用する薬があり、各地方からもたらされた山蔘や麝香のような貴重な補薬もあったという。
この官邸で清掃する人々は、真っ白なガウンを着て通う。電球を磨く時は、官邸の天井が非常に高いため、はしごを利用する。
食
堂は金正日の寝室の側から、金正男の大型娯楽室を渡って右側にある。ここに置かれた直径2.5m程なる丸い食卓で金正日と成恵琳、金正男、成恵瑯、金ウォ
ンジュら家族が食事をした。厨房は官邸の横から片方に飛び出すようになっているが、官邸とは廊下で連結している。厨房には寝室が別にあり、料理士2名が交
代で常に待機している。
15号官邸の他にも、大同江岸にある東平壌官邸(85号)は景色が飛び抜けている。面積が非常
に大きく、正門を通過して真中に至るあたりで建物が現れるが、この間にある垣根の間には、白頭山で捕えてきた鹿たちが飛び回る。また蓮池と釣り場、人工滝
もあり、滝の下には養魚場と噴水施設がある。
蒼光山官邸もある。蒼光山官邸は金正日の愛妾、高英姫が使用していることが判明している。金正日は1979年から蒼光山官邸で高英姫と同居をはじめた。普通江区域の書斎洞にも官邸があるのだが、上記の官邸より規模がはるかに小さい。
金正日はまた、全国各地に特閣を持っている。特閣は一種の別荘の概念なのだが、特異な点は金日成の特閣と金正日の特閣が、それぞれ別にあったという点だ。
留学後に捨てられた金正男 幼
い時期、父の限りない愛を享けた金正男だったが、1989年の留学生活を終えて平壌に帰ってきたころからは、父から遠ざかり始める。金正男がモスクワや
ジュネーブを放浪し平壌へ戻った時には、すでに可愛い子供でなく18才の髪の長いチョンガーになっていたのだ。その間に金正日は別の所帯をつくろい、息子
や娘を見るなど楽しい生活を盛んに送っていた。
高英姫が産んだ金正哲がこのころ10歳あまりであったから、盛んにかわいいしぐさをする年齢であった。幼い金正男に降り注いだ金正日の愛情が、他の息子に移っていったのであった。
し
かも思春期を外国で送った金正男は、女友達をオートバイに乗せて遊びに行ったり、女性と同居するなどの放蕩な生活のあげく、勉強をきちんと終了していない
まま帰国したがゆえに、金正日は好ましく思わなかった。成恵瑯は著書「藤の家」で、金正日の心情をこのように分析した。
「昔
のことをよく覚えている正男が帰ってくると、彼(金正日)は自分の腹が見透かされるようなぎこちなさと、息子が背信したという葛藤を感じた。隠れて始めた
新しい生活が、この長男に見つかることにやましさを感じたのだ。またせっかく道をつけた留学から最優等生で終わりまで勉強を終えることができずに帰ってき
たことも残念だが、その理由が自分の浮気心であることがとても不満だった。自分の体験で、いまその息子を巻きこむ青春の'放浪'を心配してくれる仲間はい
なかった」
90年代初期金正日は平壌に帰ってきた20代はじめの金正男を東平壌官邸(85号官邸)に縛っておき、外を歩き回れないようにした。そしてすでに他の生活を固めていたがゆえに、金正男が住む官邸にはほとんど来ることもなく、彼の世話もしなかった。
こ
の頃、金正男は李韓永の妹である李ナモクと成恵瑯、母方の祖母金ウォンジュと一緒に生活していた(姨従四寸の李韓永はすでに1982年、ソウルに亡命し
た)。金正男の話し相手は異種妹の李ナモクだけだった。李ナモクは金正男の話し相手であるだけでなく、金正男の生活を金正日に報告する統制役だった。
当時の生活を成恵瑯はこのように回顧する。
「生
活がないわれわれは話題もなかった。黙々と湯飲み茶碗を持って見下ろす死んだ庭は、私たちを世間と遮断させている空間というだけで、この生活の閉塞感を
破ってくれるのは金正日秘書だけなのに、彼にはなんの方案も関心もなかった。私たちは忘れられた土地で、何の展望もなかった。……家は高級監獄、私立ちは
みな無期囚であった。」
銃器乱射事件 だ
が金正男は夕方ごとに友人を家に呼んで遊ぶ。そんなある日、1991年5月18日の夜1時頃、不意に家を訪問した金正日にこの場面を見つかってしまう。金
正日は烈火のごとく怒った。当時、成恵瑯は泣きながら許しを乞い、85歳になった金正男の母方の祖母も、ともに両手をついて謝った。当時、成恵瑯は大きく
なっても外を行き来することもできず、友人たちと思い通りに遊ぶこともできない金正男が哀れで、悲しみのあまり泣きむせぶこともあったという。
金正日は、酒と女性を好む自分にあまりにもよく似た金正男が苦手だったようだ。金正日自身が「酒量は度量だ」というほどに、酒と女性を好んだ。父から捨てられた金正男の彷徨は、より一層激しくなった。
逸
話がある。金正男は1993年のある日の夜、外国人観光客が宿泊する平壌の一流ホテルである「高麗ホテル」にベンツを乗りつけ、地下のナイトクラブに現れ
た。そこで他の客と女性をめぐって口喧嘩がおきると、金正男はトカレフTT33を真似して作られた、北朝鮮製58拳銃を取り出し、突然天井に向けて二発を
発射したとのこと。この拳銃乱射事件の報告を受けた金正日は、腰のベルトで金正男を殴った、という噂が平壌市民の間に広まったという。
90年代初期、終始父の関心の外で憂憤をしずめた金正男は、再び金正日との関係を回復する。1996年2月、成恵瑯の西側脱出事件がその契機となったことが知られている。当初、韓国や日本の言論は金正男の生母である成恵琳も、姉と一緒に亡命したと伝えた。
事
件以後、金正男はただでさえ難しい境遇のために戦々恐々とした。彼が最も苦心した部分は、自分と父の関係だろう。運良く金正男の母、成恵琳はモスクワに留
まって脱出しなかったので、金正日は先妻の亡命という恥ずかしい目に遭わずにすんだ。この事件以後、金正日は「私にだけ忠実ならば別事なし」との一言で、
金正男を慰労したことが伝えられた。以後、金正男は父に忠誠を誓ったと推定される。
成恵瑯の脱出事件直後に炸裂したのが、成氏の息子である李韓永氏の被殺事件だ。この事件はあいかわらず迷宮に陥っている。事件以後の数ヶ月間、何らの糸口もつかめないので、捜査当局は犯人が北朝鮮工作員として結論し、暫定的に捜査を終結した。
確認することはできないものの、金正男はこの事件の背後人物といわれている。李韓永氏が「 大同江ロイヤルファミリー・ソウル潜行14年」
という本で、金正日の乱雑な秘密パーティーなど一家の私生活を一つ残らず公開したため、南へ工作員を派遣させて復讐したということだ。北朝鮮内部では、金
正日一家の私生活を公開したことが発覚すれば、誰も知らないうちにこっそり消えてしまう。李韓永被殺教唆説が事実ならば、金正男はこれにより金正日の信任
を得た可能性が大きい。
金日成主席死後、金正日体制が落ち着くなかで1998年7月の最高人民会議代議員選挙が開かれた。その当選者名簿に「金正男」という名があった。当時は他人という分析もあったが、現在では金正男本人だと見るのが妥当だ。
97年以後、信任を回復 金
正男はスイス留学でフランス語をほとんど完全にマスターし、英語も相当な水準まで習得した。またロシア語と日本語も会話に不自由しないと伝えられる。この
ような語学の実力を土台にインターネットになじんだ彼は現在「国家コンピューター委員会委員長」として、北朝鮮のIT政策を推進する責任者になったことが
伝えられている。
いっぽう1999年10月中旬に北朝鮮を訪問した中国朝鮮族の証言によれば、北朝鮮のテレビニュース
は「金正男同志」が軍部隊を視察した、と報道しながら、長官級夫人が敬礼で金正男を迎える場面も出てきた、という(1999年12月7日付の北海道新聞朝
刊)。また金正男は「国家安全保衛部指導員」または「人民軍保衛司令部幹部」そして最近は「党組織指導部課長」という要職にいた、と伝えられている。
さ
る5月1日、金正男一行を逮捕した日本の公安調査庁、警視庁、内閣調査室、法務省、出入国管理所など5つの部署の合同調査班は、金正男が日本のみならず世
界のあちこちを旅行した事実を明るみにした。金正男がこのように海外旅行をしていたことは、父である金正日の承認と信任なしでは不可能だ。
李韓永と成恵瑯が書いた本を見れば、北朝鮮のロイヤルファミリーは直系家族であるほど、金正日の裁可なしでは海外旅行はできない。極端な場合、国内旅行と給食と生活用品の供給さえ、金正日の決裁を受けなければならない。
注目される金正男の運命 1990
年代初期、金正日が金正男を東平壌官邸に閉じ込め、自由に外出できなくしたことがその実例だ。またこの頃、金正男と成恵瑯一行が元山海水浴場へ行ったとき
は、海水浴場に閉じ込め、数ヶ月間平壌に帰京できないようにした。このとき金正日は食料品も正しく供給されない侮辱を与え、金正男に炭鉱労働へ行く準備を
しろ、と脅すこともあった。
東京密入国事件以後、金正男はもう一度、大きな危機に直面したとみなされる。一部の分析どおり、彼は高英姫が産んだ息子、正哲(20)とのパワーゲームで押し出される可能性が小さくない。しかし96年の成恵瑯氏亡命以後のように、劇的に回生することもできる。
日
本は金正男逮捕事件で身の振り方を上手くこなした評価を受ける。金正日に恥さらしは恥さらしとして与え、中国に渡して北朝鮮・日本の関係も悪化させなかっ
たということだ。国内のある情報機関関係者によれば、金正男は東京事件以後、平壌へ帰ることができず北京に留まっているという。この関係者の話が事実で、
金正日が怒りを鎮めないのならば、金正男は恐らく父に「助けてください」という哀願の手紙を継続して送るものと見られる。彼が今回の危機をどのように突破
するかは、誰にもわからない。
だが、金正男の運命を金正日の後継構図と連結して分析することは、今のところは未熟な判
断のようだ。北朝鮮事情に精通する、ある情報機関関係者は「言論が今の時点で金正日の後継構図を取り上げるということ自体が不合理だ。金正日はまだ健康
で、年齢も若いためにそのような段階ではない。彼が第一人者の席を譲り受けてから何年にもならない。また北朝鮮の国内事情はとても不如意なために、北朝鮮
での後継構図を論ずることができる雰囲気ではない」としながら、後継構図の論議自体を一蹴した。金正男の運命は座視するしかない。
(おわり) |