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2010/09/07 Tuesday 15:39:17 JST
 
 
科学院創立50周年に際して プリント メール
2006/04/22 Saturday 00:29:00 JST

科学院創立50周年に際して

在日本朝鮮人科学技術協会顧問
博士 朱炫暾

(Vladimir訳。原文はSTEPIの「資料室」

 1952年の科学院創立当時、私はまだ高校生であり、当時、祖国解放戦争が最高潮にあったので、科学院が設立されるとは夢にも思わなかった。

私がその存在を知るようになったのは、留学時期に当時、京都大学化学研究所で合成繊維研究をしていた廉成根博士と大阪大学で石油化学を研究していた崔ソククォン博士に会い、さまざまな指導を受けた1958年頃だったと考えられる。

 当時廉博士は合成繊維であるビニロン(ポリビニールアルコール系合成繊維に対する日本式の名称)の性質に関する基礎研究と、その工業生産技術に関する諸問題を研究していた。本来の発明者である李升基先生は、共和国科学院に在職しつつ、興南にあった研究所でビナロン(ポリビニールアルコール系合成繊維に対する共和国での名称)の工業化生産に対する研究をしていたのだが、当時そこでビナロン工場を建設中であるという話を聞いたと記憶している。

科学院咸興分院が建てられたのは1960年だ。祖国解放戦争のとき、青水(平安北道鴨緑江付近)というところに地下研究所があり、そこでビナロンなどに関する研究をしており、戦後の1958年には化学工業省中央研究所(平壌)分院として興南へ移転し、1960年8月頃には金日成主席の指導で各研究所に分散していた化学部門の研究所を咸興に集中させ、科学院咸興分院が設立されることになったのである。

久しからず二人の博士は帰国準備に余念がなく、私も微力ではあるがご両人を助けた。ご両人は1961年の春に帰国し、科学院咸興分院で仕事を始めることとなった。2・8ビナロン工場はその直後である5月6日に竣工した。いま考えれば二人の先生はビナロン工業生産研究に関する支援を終わらせ、竣工式に合わせて帰国したようだ。

いっぽう私は廉博士が後任を私に任せるとおっしゃったので、大学院生として李升基先生と廉博士が通った京都大学化学研究所に入り研究を行うと同時に、科学院の廉博士と連絡を取りながら実力を積み、帰国後は科学院咸興分院に入る計画を立てていた。結局、科学院はそのころから私の帰国後の職場だ、と独断で定めたのだ。こうした理由から、私と科学院との出逢いは咸興分院で1961年から始まった。

科協(在日本朝鮮人科学技術協会)の立場で見れば、1961年に京都支部の会員となったので同じ年のことだった。

当時は現在のような祖国との交流が順調ではなかった。ときどき長い時間をかけて、郵便や人からの手渡しなどで廉博士からの手紙が到着した。手紙はせいぜい便箋2、3枚ほどであったが、普通の文字の1/3ぐらいの大きさの文字で学術、技術的な要求事項などがもれなくぎっしりと、沢山詰まっているように書かれていたため、実際の内容は豊富だった。

そのとき廉博士から来た手紙のなかには李升基先生からの激励の言葉が一緒に書かれていた。先生は、科学者を目標とする人々にとっては朝鮮民族の優秀性と才能を世界にとどろかせた愛国愛族の科学者として、確かに尊敬を受ける師匠であり、同時に大先輩、大先生であった。

当時、先生は科学院咸興分院の院長であり、科学院の象徴だった方であるため、そのような先生から激励の言葉をいただき真に感激し、祖国をより一層身近に感じるようになったのはもちろん、私が科学院の研究者として認められたような気がした。

これとともに廉博士を通じた咸興分院との連係が続き、科協は科協で自ら組織的に科学院との連係を深化させ、1966年には在日科学者たちに共和国科学院の兼任研究員の資格が授与された。当時、科協傘下の科学者たちは早く帰国した人もおり、残っている人々の中にも帰国を希望する人々がますます増加していた。このような状況で、たとえ身体は日本にあっても祖国のための科学技術研究に献身した同胞研究者に、これに相応する資格を付与した祖国の温情と私たちに向けられた期待は大きな激励となった。同時に私たちの期待もまた大きくなった。私もその当時、兼任研究員のひとりに任命され、これでもう科学院に入るのを認められたのと同じだ、と思った。

ほぼ同時期に私は学位も取得し、いまや帰国を準備していたのだが、ちょうどその時期に科協分室ができ、帰国を準備する科学者および技術者たちを分野別に分けて、いくつか技術集団を形成したのち、それぞれ具体的な生産と技術プロジェクトを組織して準備した後に帰国する、という計画が実行に移された。当然のことだが、多くの兼任研究員たちがこのプロジェクトに関与した。

このようにして、窯業、畜産、化学などいくつか分野プロジェクトを祖国の実状に適するよう積極的に進めた結果、数名の科学者と技術者が技術および設備、仕事を携えて帰国した。それは当時、在日科学者と技術者が持つべき理想的な姿として同胞たちに認識された。私もこのとき新しく開発された、天然皮革に近い構造と性質を持ったポリウレタン系合成皮革の製造技術に関するプロジェクトを引き受けた。しかし、そのようなタイプの合成皮革はまさに市場に出たもので、デュポンが新しく規定した製造特許に基づき、各社が新しく開発した技術と設備で製造されたため、買い入れや技術実習、工場見学ができないのだった。またその合成皮革の基本繊維となる不織布と、コーティング材料であるポリエステルまたはナイロン繊維、ウレタン樹脂など大部分の原材料が、祖国で生産できないことも大きな問題であった。

その後、私たちはポリウレタン系合成皮革に関する調査を中止し、祖国の実状に適した共和国産ビナロンとポリ塩化ビニールを主原料として、これに新規の製造法を適用し、新しいポリ塩化ビニール合成皮革を製造するための研究を進行するよう方針を転換した。報告が到着したのかどうか、祖国からはまもなく外国から合成皮革製品設備セットを輸入するという話が伝えられた。

時間が過ぎ、祖国は1979年にドイツから塩化ビニール系の人造皮革製造技術設備を輸入するため、1980年代初めに祖国を訪問し工場を見学した。かなりの規模の設備で、製造工程でビニロン/テトロン不織布をゴムラテックスに沈積処理した側表面に、塩化ビニール樹脂をコーティングするのが、私たちの考えと似ていた。後で聞いたところによれば、この仕事に科学院咸興分院が関与し、日本から来た最新情報が非常に参考になったという。

ここまで科学院との連係過程で私は、科学院での研究とその成果は生産に導入されなければならないものであるため、科学的研究に技術開発が伴うようにするためには、まずは先進国家ですでに研究開発された技術を祖国の実状に合わせて導入するための研究が多く行われなければならない、と認識するようになった。

ここで私は在日科学者、特に科学院兼任研究員として祖国の科学技術発展と社会主義建設に寄与するためには、科学院で研究していた課題とすでに日本などの地で成し遂げた科学技術成果のうち、祖国に有用な情報を提供し、祖国の実状に適する技術、設備を導入することに全力を尽くすのが必要だ、と考えるようになった。

1972年3月に朝日輸出入商社が設立されて、私は京都でやっていた研究を終えて東京へと移り、技術、設備調査および導入業務を担当することとなった。

そのとき、祖国から来た科学技術関連代表団が日本を訪問しており、その団長であった咸興分院のシン・ピョンジュン先生から、廉博士が中心となって咸興分院で乾燥式放射法を通じたポリ塩化ビニール繊維製造の関連研究と技術プロジェクトを遂行している、という話を伺った。そのときはじめて科学院と直接接触をするようになり、さまざまな資料を収集しながら、機材、機器の購入を支援したのだが困難な問題が多かった。

なかでも特に問題となったのは、乾燥式放射用放射ノズルを依頼製作するメーカーを探すことと、具体的な設計条件(すなわち、放射原液の溶媒の種類、濃度、粘度、温度、放射速度、放射中の温度とノズルの材質・直径、ノズル穴の直径と数・形状など)がないため、受注が難しいということであった。私たちに伝えられたのは溶媒の種類とノズル穴の数だけであり、メーカーからの質問に答えられなかったのだ。

祖国に訊ねたい場合でも電話で直ちに連絡するのは難しく、連絡ができても祖国では乾燥式放射など初めてだったため、詳細な返答を聞くことは無理であった。そこで一週間ほど、乾燥式放射に関する資料をあちこちで読み、放射条件を推定しながらよくわからない化学工学計算も参考書を何度も手に取り、数値を算出してメーカーに送っていた。関西地方のメーカー担当者はデータが不連続的だと考えたのか、提出された回答を見て「本当なのか?」という表情を浮かべた。

メーカーと数回の技術的、経済的交流を通じて放射ノズルが完成し、これを咸興分院に送ったのだが、多少高価なものとなったために心配であった。後で廉博士から、要求に即して正確にできていた、という話を聞いて安心し、嬉しかった。

このようにして代表団の訪日の機会を通じて、科学院との連係は具体的にはかどったのだが、朝日輸出入商社の技術設備部には専任科学者と技術者が分離していたので、科協から提起された科学技術課題などはたびたび戻されてきた。また継続的に日本を訪問する科学技術関連以外の代表団からも、さまざまな科学技術的問題が提起された。

こうした実状に対応するため、1976年には朝日輸出入商社技術設備部の有志が中心となり、(株)三興技研という技術コンサルタント会社を発足させたこともある。
この時期、私は科学院と関連したポリビニールアルコール品質とビナロン品質の改善、ビナロン繊維、ビナロン染色および樹脂加工、ポリ塩化ビニール繊維、プラスチック可塑剤と安定剤、そのほか高分子工業に関連する調査研究を行い、技術設備導入の任務も担当した。

そのなかで特に印象に残ったのは、(株)ユニチカが共和国にビナロン垂直放射設備と紡績設備の輸出を担当したことである。ユニチカの設備技術担当者は、ちょうど李升基先生がかつて京都大学で教鞭を取っていたときに教えた最初の弟子、川上博氏であった。この人はビニロンの特許で李先生と一緒の発明者の一人として知られていたのだが、私は不勉強な後輩だったのでその事実を知らず後に知ることとなり、非常に喜んで下さりビナロン技術と染色に関することを親切に教えてくださった。

このような設備を運ぶため、川上博氏が朝鮮を訪問した際、李先生と会うことを望んだのだが、李先生はちょうど出張で不在であったため、惜しくも会えなかったことを川上博氏は今でも心残りにしている。

まさに私も廉博士、李先生に会うことができなかったのだが、かろうじて廉博士と会うようになったのは1977年、祖国を訪問して咸興に行ったときであった。
そのときは(株)三興技研代表団の一員として祖国を訪問したのだが、咸興分院を訪問できなかったため咸興市にあった新興山ホテルで出会いを持った。

そのとき、先生は国産ジープでホテルに急いで駆け付けられた。当時、共和国では博士学位を持った人々には乗用車を授与される事実を聞いたことはあるものの、実際に先生が車から降りられるのを見て、共和国で科学者への配慮が尋常ではないことを知ることができた。事実、当時の共和国では乗用車に乗る人は少数に過ぎず、日本にいる私たちも乗用車を持っているのはめずらしかったのだ。

廉博士とは夜遅くまで、ポリ塩化ビニール系繊維とビナロンに関するさまざまな問題を議論した。私は科学院の課題を日本に持ってきたことについてはさほどの負担を感じてはおらず、むしろ私を信頼してこうしたことを任せてくれることが有難く、嬉しかった。

ポリ塩化ビニール系繊維は「モビロン」と命名され、中間試験生産を経て1980年、2・8ビナロン工場敷地内に年間1万トンを生産できる工場が完成した。
1980年代の初めには在日同胞商工人と団体が多くの工場設備を祖国に贈呈し、1年の大部分を祖国で過ごしたが、平壌での業務が非常に多かったため咸興分院を訪問する機会はなかった。

1984年になって咸興を訪問する機会ができたとき、分院を訪問し久しぶりに廉博士と会いモビロン工場を見学して、今回こそ李先生に挨拶しようと考えていたのだが、ちょうどご両人とも出張中だったので会えず、ビナロン工場も見学できなかったのが心残りだった。

そのときの心残りが2年後、無念さとして残るようになろうとは夢にも思わなかった。なぜなら1986年、廉先生が出張途中の列車の中で発作により急死されたためだ。こうしたことがあって、廉博士と一緒に李先生にお目にかかるのは叶わぬこととなってしまったが、その翌年の1987年11月初めに、李先生に会う機会を得ることができた。

いまからちょうど15年前、科学院創立35周年祝賀団団長として祖国を訪問したことがあったのだが、そのときの記念集会で李鍾玉副主席と金敬峰科学院院長と間近で会うことができ、また壇上に登る光栄にも浴した。

記念集会が終わり、科協材料専門委員会委員として1986年から科学院咸興分院とともに推進してきた高分子関係の共同研究協議のために咸興を訪問したのだが、そのとき分院の院長室で初めて李先生と会い、喜んだことがあった。先生と対話をしながら、私は廉博士がここにいらっしゃれば、という思いがたびたびこみ上げた。

李先生とはその翌年にも張炳泰・現朝鮮大学校学長と一緒に会ったことがあるのだが、その後は健康な姿で再び会うことはできず、李先生は1996年、91歳の生涯を閉じられた。

その後の10年ほど、私は1年に何回か咸興分院と2・8ビナロン連合企業などを訪問した。それは科協との共同研究とあわせて、分院に瞬間接着剤製造技術と設備を導入すること、2・8ビナロン連合企業所内に高強度ビナロン製造技術と設備、塩化ビニール樹脂コンパウンド製造技術と設備などを導入するためであった。

共同研究はポリビニールアルコール系の各種製品とビニールアルコール空中合体、高強度ビナロン、分離膜、ポリ乳酸系手術用縫合糸、瞬間接着剤などに関するものであり、一部は現在でも引き続き研究中にある。

この高分子関連共同研究に関与した科協材料専門委員会の高分子共同研究者と分院研究員が共同執筆、編集した高分子新素材関連の最新資料が高分子新素材便覧(朝鮮語)に集大成されている。

本の名称は「先端高分子材料」(1993年・科学技術出版社)で、当初は薄い上質の紙を使用して商品価値の向上を試み、南朝鮮にも売る計画で紙と表紙などを調達して送ったのだが、完成した本は送った紙と違った紙質で作られていた。

しかし内容は日本の便覧より製造方法などが詳細に収録されており、好評を博した。
瞬間接着剤製造設備も共同研究に含まれており、玄丞培博士と金ブジュン博士が研究しているので分院研究員もその合成法をよく理解するようにはなったが、原料と製造設備に問題があった。幸い玄博士が京都大学化学研究所で研究していた関係により、京都地域の同胞商工人らが設備セットを寄贈することとなった。

本来製造設備などが前もって作られているはずもなく、すべての装置の設計を終えて注文製作をするのに、図面一つあるわけでもなかった。金博士の助けであれこれと推測し、工程図をスケッチして分院研究者と連絡しながら計算したこともある。その結果をまた分院に連絡し合意を経るなど何度か往来しながら、かろうじて設備を完成させた。だが先に述べたノズルの場合と同じく、正しくできているのか心配になった。

1992年7月13日、咸興分院の一部で開かれた「愛国接着剤職場」竣工式に参加したが、瞬間接着剤製造設備はその中で正確に納入されており、試験生産をした結果、一部の配管の長さと位置を修正することのほかには問題が見つからず、安心した。
ただし現地で製作した一部製造品の完成された形が、納入設備とまるで不釣り合いだったことが、いまでもはっきりと映像として記憶に残っている。

2・8ビナロン連合企業所との仕事は、私が1987年から朝鮮総聯合弁事業推進委員会技術担当者として勤めつつ、某同胞企業と2・8ビナロンとの間での塩化ビニール-コンパウンド製造合弁工場建設と関連した技術問題を専門担当するようになったことと関連する。

塩化ビニールコンパウンドというのは、塩化ビニールの成形品用途に適するよう塩化ビニール粉末に可塑剤、安定剤、顔料などを添加し配合して作った成形用配合物で、コンパウンドの種類によって成形条件と成形物の性質が異なる。したがってかなり多額の資金を投入して配合研究と工程、品質管理を担当する実験室を作り、さまざまな種類の実験機器を用意し、職員の教育指導も咸興分院にお願いした。

またこの時期、日本にビナロン専門家が来て、在日の某商社と日本の母体(親企業)が2・8ビナロンで石綿を使った高強度ビナロンを製作したという消息を持ってきた。調べてみた結果、ビナロンに対してはまったく無知な集団であり、結局は私に助けを求めてくるようになった。

私はすでに1975年頃、高強度ビナロン研究をはじめとして、ビナロンに関する資料と情報を集大成したものを数回、咸興分院と2・8ビナロン、軽工業科学院などに提供したのだが(そう思っていた)、2・8ビナロンではその資料を受け取ったことがないという。たびたびあることなのだが、いったいあの資料はどこへ行ってしまったのだろうか?次に2・8ビナロンを訪れたとき、複写本を持って行ったのだがこれもまた行方不明となった。

このように複雑になってきたので、私は咸興分院との相談を提案した。このような方式で科学院の世話になったが、まもなく分院の協力と指導を基盤として、製造ラインが完成された。

このように私は科学院咸興分院設立以後の約40年間、直・間接的にあるいは陰になり日向になり科学院との関係を結びながら仕事をし、現在でも科学院咸興分院のいくつかの研究所と、高分子関連の共同研究を行っている。今年8月には大阪経済法科大学科学技術研究所代表団として洪邦夫、洪ユング2名の博士とともに共同研究のために咸興分院を訪問し、大歓迎を受けた。

咸興分院には最近、1999年3月7日と2002年6月7日の2度にわたり金正日総書記の現場視察があったが、研究成果に対し良い評価を得た。

また彼の配慮で数機の最新研究機器などが導入され、21世紀の新しい研究課題を遂行するための意欲が研究員たちの間にあふれた。

この他にも、最近実施されている新経済制度では実利主義が重視され、科学者と技術機能保有者に対する待遇が良くなり、賃金改善比率が他の職業と比べて非常に上昇し、これによって分院科学者たちの表情も明るくなり、活気があふれていた。

分院ではおよそ3年間の共同研究に対し、院長の直接の司会による報告会と総括が行われた、満足な研究成果が得られた。同時に多くの成果がすでに実用化の段階に達しており、努力に対する良い評価を得ることができた。

研究の最中、金正日総書記が1999年3月7日に咸興分院を視察した際、次のような話をした。

「ビナロン中間製品から新しいさまざまな製品を生産できる技術を開発し、21世紀の主体的なビナロン工業を創設しなければなりません」

ビナロン中間製品の一つであるポリビニールアルコールを原料とし、さまざまな製品を生産するのは1980年代後半から科協の共同研究のテーマのひとつとして指定され研究されている。また1999年から私が分院ビナロン研究所と実施した共同研究が、間違いなく総書記の「21世紀の主体的なビナロン工業創設」の大方針に符合するものであることを知り、この共同研究を行ってきたことを誇らしく思うようになった。

今後も私たちは方針により共同研究を推進していくつもりだが、多くの方々の話を聞くと、カーバイド工業は採算が合わないから廃止する方案を考えているという。もしそうなったら化学工業全般に大きな転換が起きるであろうし、ビナロン工業に関する新たな研究課題が多数発生するだろう。これにともない私たちもまた、新しい任務と役割を遂行していかなければならないだろう。

科学院創立50周年は私自身にも科学技術者としての役割を総括すると同時に、今後の役割を考えてみる機会でもある。私は科学院創立50周年を熱烈に祝うと同時に、祝賀を受ける研究者としての自覚性をますます高揚させ、科学院との連係を引き続き強化し、一生現役で祖国の科学技術発展と社会主義建設のために絶えず努力する、という決意を新たに固めている。

 
 
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