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工業技術水準 日本からの技術移転を考える 安部桂司 「北朝鮮の現状を読む」(渡辺利夫編著。JETRO、1997年9月刊)より
第7章 工業技術水準日本からの技術移転を考える はじめに 「今日、朝鮮民主主義人民共和国は、『文化』『思想』とならんで推し進める『技術革命』の路線に、石油でなく、電力、石炭資源をあくまでも主体的に生かしつつ、徹底した国産機械による重工業の自立をはかり、あわせて農業とのバランスのある発展をめざす方向をとっている。時代も国際環境もまったく違うが、野口のめざしたところと、一脈通ずるものがあり、救われる思いがいたすのである」 ここに「野口」とあるのは日本窒素の野口遵のことである。そしてこれは科学技術史家飯田賢一先生が82年に発表した文章である1)。この年に在日朝鮮人科学者である申在均朝鮮大学校副学長は祖国の科学技術について次のように述べている。「人民経済の主体化とは自国の資源と技術によって、自国の実情にかなった経済を建設し発展させることを意味する。それならば今日、どうして人民経済の主体化が一貫して強調されるのかについて考えてみたい。それは、なによりも祖国の資源問題に関連している。周知のごとく、祖国は地下資源の豊富な国ではあるが原油とコークス炭を産出していない。これらを輸入に依存しなければならないのが実情である。
このことは、祖国のエネルギー問題、製鉄工業、化学工業およびその他の産業に深刻な影響を与えている」2) しかし、この時はまだ、コークスを使わず自国で産出する無煙炭による製鉄、粉末無煙炭と粉末鉄鉱石を焼き固めて溶鉱炉に入れ、コークスを節約する還元球団鉱法、無煙炭ガス化によって得られる水素を用いるアンモニア製造法、無煙炭と石灰石から得られるカーバイドに基づく化学工業、エネルギー源を主に水力発電と無煙炭をたく火力発電によっている実情を誇りを交えてあげることができた。 だが、90年代に入って、さくらグループの合弁訪朝団の団長全鎮植氏は「わが国(北朝鮮)は国際化が欠如している」と日本に戻った後語った3)。 それは、「この程度で喜ぶならば朝鮮民族にかかったら何でも世界一になってしまいます」という、厳しいものであった。つまり、このころになると北朝鮮の電力と石炭資源をあくまでも主体的にいかした工業が怪しくなっており、だれの目にも正常とはみえなくなってきたのである。そこに、韓国の呉源哲氏が「北韓経済が倒壊する理由」を書き、雑誌『新東亜』に発表した4)。呉氏は、現在、北朝鮮は「総体的破綻」をきたしているが、その決定的理由は71年から開始された人民経済発展6カ年計画の失敗であった、と断定した。 呉源哲氏によれば、北朝鮮の経済政策の基本理念は自力更正だという。 そして、自力更正の政策のために北朝鮮経済は電力多消費型工業構造に突っ走る。例として、石油の輸入は自力更正の原則に反するとその使用を抑制した。その結果、ガソリンが貴重だからと市内バスをトロリーバスに、貨物輸送も石油を使うトラックより鉄道の電化で解決しようとする。こうしたことから北朝鮮はより多くの電力に依存することになった。 呉源哲氏は、電気をもっと生産しようとすれば、さらに多くの石炭を掘り出さなければならず、6カ年計画の石炭輸送には毎日30トン貨車5,000台が必要だと分析し、ついに鉄道輸送は限界に達した、とその総体的破綻を解説している。また、北朝鮮の工業技術は40年代の技術に固定され、国際競争力のない製品をつくっていると指摘する。北朝鮮が世界の潮流に従うならば、硫安肥料生産工場を1日も早く廃棄してナフサを使用する尿素肥料工場を建設すべきだ、とも述べている。 この総体的に破綻へ向かっていると呉源哲氏に指摘された北朝鮮の工業に本当に希望はないのか、「在日本朝鮮人科学技術協会」(略称「科協」)による日本からの技術移転との関連で考えてみた。 1.北朝鮮工業の問題点
北朝鮮にもナフサを使用する尿素肥料工場は建設されているが、それは6カ年計画で建設したほかの石油化学工業の工場と同じく、規模の小さいものであった。それでは、国際競争できる価格の製品は生産できない。それに、石炭と電気でカーバイドをつくり、各種の製品を生産する石炭化学工業のみが金日成の主体思想を体現する。 そして、94年の金日成死去後の工業の置かれている現状はどのようになっているのだろうか。水害も重なって北朝鮮経済の破綻がいわれた95年に、韓国産業銀行は『北緯の産業』を出した。630ページもある大部な調査報告書で、内容は詳細である。『北韓の産業』には呉源哲氏の論文から、日本でも評判であった李佑弘『暗愚の共和国』などが引用されている。日本からの引用といえば玉城素監修の『北朝鮮Q&A』の全訂版も使われている。 この『北韓の産業』は第1章の金属から第12章の輸送部門まで北朝鮮の産業を支える各部門を詳細に分析している。そして、各章ごとに南北比較があり、問題点があげられている。例えば、「金属」の章でいえば、「第1に投資財源が不足で施設交換および補修がなされていない。第2に原料鉱物の生産不振により原料供給不足と資源調達が円滑にできない。第3に電力供給が不足している。第4に先進技術から隔離した経済性の低い生産方法が利用されている」の4点があげられている5)。この4点の問題点は金属に限らず北朝鮮のすべての産業に共通していえることである。また、このいずれの指摘も妥当で的を得ている。 妥当だというのは、金属の場合、在日関係者の話からも、第1に日本への投資の要望が強いこと、第2に例えば茂山鉱山からの鉱石輸送がうまくいってないこと、第3に電力供給についてはエネルギー不足と重なって深刻化していること、第4に96年も北朝鮮は鉄鋼関連の技術調査団を日本に派遣してきていることなどから推測できるからである。 95年に引き続き96年も、科協は北朝鮮から鉄鋼関連の技術調査団を招待している。それは、先進技術から隔離された北朝鮮に、鉄鋼技術の先進国日本の技術をどのように移転するかという課題を背負った調査団である。 北朝鮮が日本の先進的鉄鋼技術導入を図ろうとしていることについては、『科学技術』に3回にわたって連載された朝鮮大学校(東京・小平)の康忠煕氏による「南朝鮮の鉄鋼業とその技術」からもうかがうことができる。それは、鉄鋼技術といえるものがほとんどない状態から出発して、20余年間で世界第6位の鉄鋼生産国になるには先進国からの全面的な技術導入がなければならなかった韓国の分析を通して、北朝鮮の鉄鋼業の進路を模索するものであった。そして、康氏は日本からの「技術導入は総合製鉄所の基本計画から建設工事、設備設置、操業指導はもちろんのこと、コンピュータ制御システム、鋼種の選定に及ぶまで包括的なもので、製鉄所の全技術をワンセットまるごと移植するような形で行われた」と述べている。 そして、日本の進んだ技術の導入であったから、80年には鉄鋼の生産性でEC諸国、米国を抜いて日本に次ぐ水準に達したという6)。 私は80年代の前半、新日鉄の技術者が、浦項からの電話1本で飛行機で駆けつけるという実情を耳にしている。 康氏の報告書は韓国が鉄鋼業の世界の主要生産国となり、鉄鋼業が国の産業基盤となっている現状とその技術的特徴を考察している。それは、主体化のために苦労を続けている北朝鮮鉄鋼業が、将来日本の鉄鋼業界の協力を仰ぐとすれば、そのための基礎資料となり得るものである。 この康氏の調査報告が記載された『科学技術』誌は、在日本朝鮮人科学技術協会の機関誌で、北朝鮮の科学と工業の実情を知る上で最高の刊行物となっている。そして、私は『科学技術』を読みながら『北韓の産業』のあげた問題点が共有されていることに気が付いた。 例えば、康忠煕氏は、はっきりと「世界の鉄鋼業とその技術との交わりが少ない現在の状況のもとでは、北で蓄積された鉄鋼技術の力は十分に発揮されていない」といっている。これはつまり、『北韓の産業』が「金属」の章で指摘している問題点「先進技術から隔離した経済性の低い生産方法が利用されている」を意味するからである。 2.化学工業の問題点
「化学工業部門の科学者、技術者は、主体繊維のビナロンに対する研究をより発展させてビナロンの質を高め、製品の種類を増やしてビナロン生産技術を高度に上げなければなりません」7) とは、金正日の言葉であるが、『北韓の産業』によれば、北朝鮮の化学工業も多くの問題点を抱えているとのことである。そして、問題点を7点あげ総括している8)。 第1に、自力更正という主体経済原則が化学工業の発展を阻害している。第2に、立ち遅れた技術を採択している。第3に、原料や副原料として使用される石炭と電力が不足している。第4に、北朝鮮の化学兵器は相当に発達していると思われるが、軍需産業に活用される技術が民間部門に適用されていない。第5に施設が老朽化しているばかりでなく系列化が行われていない。第6に、後方産業の沈滞と不振が化学工業の発展を阻害した。第7に、化学肥料生産では、要素別肥料生産能力の不均衡によってカリ肥料の生産が絶対的に不足し、大部分を輸入に依存している。 この7つの問題点について、第2、3、5の3点は「金属」の章でも指摘されているものと共通する。それで、ここでは第1、第4、第6、第7の指摘について少し立ち入ってみる。 第1の自力更正という主体経済原則については、「金日成主席と金正日書記の賢明な指導のもとに今日、わが化学工業は自己の原料、資源にしっかり依拠し発展する主体的な化学工業としてその偉容を誇っている」9)ということであるが、それが化学工業の発展をどのように阻害しているかについて『朝鮮民主主義人民共和国化学工業史」の叙述から推測しようとすると容易でない。 しかし、この『化学工業史』の冒頭には金日成主席の「わが国の実情で化学工業を発展させることは非常に重要な意義を持ち」という、『金日成著作集』からの引用がまずあり、「金日成主席は早くから国の人民経済発展と人民生活向上において化学工業が占める位置と重要性を深く推し量り、いつも化学工業発展に大きな関心を持ち、この部門の進むべき前途をはっきりと示した」と、金日成の指導と化学工業の発展とを深く結び付けて書いている。このように、金日成の指導が強く、方向転換がきかなかったことが、自国の資源にこだわるあまり世界の流れに乗り遅れるもととなった。 一方、隣の中国は、文革終了後日本から大々的に「石油化学工業」を中心に技術導入し、世界の化学工業の流れに乗った。 第4の指摘の中の「化学兵器は相当に発達している」について、韓国サイドが化学兵器なる言葉で北朝鮮の化学工業にこだわることは、およそ近代的軍備が化学的生産プロセスの所産によっているからであろう。さらに、毒ガス兵器が他の兵器と異なるのは、毒ガス製造用の薬品は平時における販売用化学薬品に何らの改変を加えることなく、すぐに戦争目的に転用できることである。つまり、化学工業製品と化学戦用資材とは識別できないことから、金日成が化学工業の発展に大きな関心を持つと、韓国は北朝鮮の化学的軍備力を正確に把握するため北朝鮮の化学工業の実情に大きな関心を持たざるを得ないのである。 日本の化学工業は55年以降にその構造を大きく変えた。顕著な点は、1つに肥料部門を中心とした無機化学部門の相対的縮小、2つに合成樹脂、有機化学品、塗料部門の伸長、3つに石油化学工業の誕生と発展、これらによって化学工業の構造は無機化学から有機化学へ転換していく10)。この、技術革新の動向から置いていかれたのが、北朝鮮の化学工業であった。その背景としては、北朝鮮の化学工業が石炭化学というか、カーバイド工業中心であっても、軍需生産の基盤を形成できたからである。 塩水を電気分解して苛性ソーダをとるとき、水素と共に塩素が発生する。この塩素が毒ガスとして初めて実戦に使われたものである。この塩素が塩化ビニールなどの合成樹脂、農薬原料となり、一時期は塩素の消費量と用途をみれば、一国の化学工業の水準が分かるといわれた11)。そして、農薬が毒ガス製造と不可分の関係にあったことは知られている。 第6の指摘の、後方産業の沈滞と不振が化学工業の発展を阻害したことについては、軍需優先の経済体質が消費生活に犠牲を強いて、工業の均衡的な発展のための努力をおろそかにしたからだという『北韓の産業』の指摘は、金秀幸氏の証言と一致する。『読売新聞』によれば、金秀幸氏は北朝鮮の貿易会社幹部で91 年に韓国に亡命した人物である。金秀幸氏は『読売新聞』(94年9月16日)とのインタビューに「経済・人事システムとも軍需産業中心」であり、「エネルギーや資材の供給も軍需優先」の原則を、民需型に転換できるかどうかが北朝鮮経済の再建のカギになる、と述べている。 第7の指摘、要素別肥料生産能力の不均衡については、硫安製造能力があるところがら硫安を肥料として継続的に使用して、水田土壌の酸性化という問題を北朝鮮農業は抱えることとなる。この問題の解決には、94年から科協が取り組んでいる。 95年の科協第14回大会によれば、「特に生物肥料導入事業を力強く展開し、祖国での導入試験を大きく展開した2年間の実験の結果、農地の酸性化を防ぎ、肥料の消費を大幅に減らしながらも穀物の収穫量を高める道を探り」、北朝鮮の農業発展のための基礎を築いたという12)。このことからも、北朝鮮における要素別肥料生産能力不均衡の深刻さをうかがうことができる。 3.北朝鮮における化学工業の原料難について
80年代になってキムチを漬ける塩に事欠く事態が発生する。金海珍氏によれば87年ごろ、北朝鮮では第3次7カ年計画が始動し、「重化学工業の分野で塩など多くの原材料を必要としていた。その中でも塩は、化学工業での酸、アルカリ工業だけではなく医薬品、食品加工分野などでなくてはなら存い必需品」であり、岩塩のない北朝鮮では天日製塩に原料塩のすべてを依拠している。しかし、その総生産量は年産40万トン前後を推移しているとみられる13)。 昭和10年代に大日本塩業は、清川江河口減に工業塩の製造目的で塩田を開いていった。朝鮮総督府専売局が大正時代から開発を進めた、大同江河口域の塩田も大半が興南の朝鮮窒素14)向けであった(ただ、ここの塩田は結晶池の底をタイル張りにして食用塩に回せるようにした)。つまり、人造ソーダ工業の登場は塩の歴史に大量の「工業塩」の需要をもたらしたことになる。朝鮮総督府は大日本塩業への開発許可に朝鮮窒素の工業塩の需要増大をあげていた。 朝鮮窒素の本宮工場では電気分解の際、発生する塩素と水素を反応させ、塩酸を製造した。化学工業は酸とアルカリを作用させることを出発点にしているが、本宮での食塩の電気分解による酸・アルカリの生産が北朝鮮の地に化学工業の成立をみたということになり、1945年8月以降の北朝鮮の・化学工業は、そこに基盤を置いた。 87年から始まった、北朝鮮の第3次7カ年計画は順川のビナロン工場建設にみられるように、工業用塩の需要増大をもたらすものであった。そのため、食塩の不足という事態を招くのである。そこで農業的な天日塩田から装置工業的な製塩を行おうとする国家計画が立てられることとなる。世界で、農業的でない装置工業的製塩を行っている唯一といっていい国が日本である。北朝鮮は日本からの技術導入を図るべく科協へ指示を入れた。 87年6月、科協はイオン交換法の資料をもって金栄春氏を団長とする代表団を北朝鮮へ派遣する。一行は、威興で物理化学研究所、電気化学研究所などを訪ねて討論を重ねた。また、かつて朝鮮総督府が建設した大同江河口域の貴城の天日塩田を視察した。さらに、平壌ホテルで北朝鮮の化学および軽工業指導局の科学者や技術者と日本からの技術導入について話し合っている。この年の秋には北朝鮮から塩の代表団も訪日した。 日本の製塩企業の大半は瀬戸内海東部に立地している。北朝鮮の代表団も、そこの赤穂海水化学工業(兵庫県)、ナイカイ塩業(岡山県)を訪ねている 15)。そして、91年10月3日に現代的な「塩工場の着工式」が成興で行われた16)。しかし、それからも原料難は続いているようである。筆者は、塩工場について在日関係者に問う機会があったが、その稼働についての情報はないとのことであった。「電力不足をご存じでしょう」ということであった。 村上貞雄氏の『私がみた北朝鮮の内幕』によれば、順川のセメントエ場では原料の石灰石はあるが粘土が不足し、生産に支障を来したという17)。セメントエ場を建設する以前から粘土が近くに産しないので工場立地に不向きだとの指摘があったにもかかわらず、金日成主席の決定した場所だからと建設され、粘土は輸入しているという。 かつて朝鮮総督府中央試験所は朝鮮の地質を調査していたが、その中に大同陶石の調査がある18)。それによれば、当時日本では主要陶磁器原料の天草陶石が不足気味であり、その代用品として、大同陶石が注目されたとある。大同陶石の産地は平壌の西20キロメートルの距離にある。順川のセメントエ場は平壌から自動車で2時間の距離にあると村上貞雄氏は報告している。このことから粘土を輸入することはないと思われるので、大同陶石のことを筆者は関係者に問うたことがあるが、その後情報は入らない。 北朝鮮の原材料不足については、電力不足が最たる原因となっているが、自国の地下資源に対する調査不足もあると考えられる。 4.日本からの技術移転模範としてのビナロン
技術移転という言葉が、国際経済論や技術論の中で使われだしたのは、60年代半ばごろである19)。61年5月6日、ビナロン工場の竣工式が金日成の出席のもとに行われた。この、2・8ビナロン工場は北朝鮮の代表的な化学工場である。ここは日本窒素がカーバイドアセチレンからイソオクタンという航空燃料を造った、本宮のイソオクタン航空燃料工場がもとになっている。 一般に、ビナロンは日本の合成繊維開発で輝かしい業績をあげた李升基博士の開発した独自の技術と思われている。だが、このビナロン開発には、もう1人の京都大学出身の化学者の存在があった。廉成根博士である。廉成根博士は59年8月に朝鮮大学(東京・小平)で行われた第1次科協講習会で北朝鮮への帰国を宣言する。そして、その準備に1年間朝鮮大学でビナロン合成の基礎実験を行っている。その成果を持って、廉成根博士は一切の家財道具を整理し、それを実験器材と書籍にかえて帰国した。そして、廉成根博士が金日成と初めて出会った時のことが、科協では折にふれて語られる。それは、金日成が廉成根博士の業績を評価したということであるが、それがまた科協への評価に重なるからである。 だが、李升基が金正日のいう「主体繊維」の発明者ということになっている。それは、39年に桜田一郎とのコンビで「合成1号」を発明したことが、日本の化学工業史に輝く成果となって、日本の戦後の合成繊維産業の光を一身に浴びていることによると思われる。李升基は、96年2月8日、91歳を一期に逝去した。おそらく、韓国にとどまっておれば、ビナロンの発明者としての栄誉が約束された化学者であった。 李升基は東京工業試験所にかつて籍を置いていた。東京工業試験所は戦時中軍需省に属し、戦後は通商産業省工業技術院傘下の研究所であった。 日本窒素の火薬製造技術は海軍第二火薬廠によっている。そこの研究部は戦後、東京工業試験所の傘下に入った。そして、東京工業試験所は空中窒素の固定によるアンモニア合成の国産化で知られている。この、アンモニア合成は火薬製造に欠かせないことから、第2次世界大戦後独立をはたした国家はこの技術に関心を持つ。 しかし、北朝鮮は日本窒素の工場を引き継ぐことで、最初から火薬製造に問題はなかった。その旧日本窒素の工場が李升基をソウルから興南に引き寄せ、李升基の指導によるビナロンの製造が北朝鮮の有機化学工業の基礎を築き、少なくとも韓国が朴正煕の指導で重化学工業化を図るまでは、北朝鮮の優位を確保した 20)。だが、それでも「主体繊維」製造技術の確立には廉成根博士の帰国を待たなければならなかった北朝鮮の科学技術事情がある。つまり、日本からの技術移転を求めるものがあった、ということである。それは、合成繊維ビナロンの開発の主要な仕事が日本の産業界で行われたことによる。 5.問題のある工業を支える力、「在日朝鮮人科学技術協会」
「オウム事件に関連して科協に対する誹諺中傷」と、科協はその機関誌で嘆いている。確かに、95年は科学技術協会にとって受難の年であった。 『産経新聞』(95年12月25日)で、いろいろと書かれている。 見出しだけでも1面のトップに「日本で産業スパイ活動」「北朝鮮、ハイテク機器入手、軍事転用可能物質も」とあり、3面の解説記事には「北朝鮮スパイ組織、軍近代化の一翼」「情報管理の甘さ突く」とあった。もちろん、ここには「科学技術協会」を直接には攻撃していない。北朝鮮が「カーギー」と呼ばれる産業スパイ組織を日本につくって、科学技術情報を収集しているというのである21)。 『産経新聞』の記事にはさまざまなことが書かれた。科協の主要な任務として、1つに特殊技術者の養成とその北朝鮮への帰国の斡旋、2つにハイテク機器など技術資料・情報の収集、3つに軍事転用可能な特殊物資の調達とその発送、の3点があげられている。 『産経新聞』の報道には、誤解もかなりあるように思われる。それは、「カーギー」のメンバーが科協に所属しているとされ、科協がその活動を堂々と機関誌などで発表していることが、あたかも秘密になされたように受け取れる表現になっていることである。それは、科協の歴史が、日本ではあまり知られてこなかったということもある。そこで、筆者なりに在日朝鮮人の、いわゆる北朝鮮支持派の科学者たちの歩んだ道を述べたい。 その歴史は5段階に区分できる22)。その第1段階は、日本の敗戦から59年6月の「在日本朝鮮人科学者協会」の結成までを指す。 第1段階では、46年6月に在日朝鮮人科学技術者協会が設立され、48年5月には朝鮮産業技術研究所が創立されている。それから、54年5月に在日朝鮮人科学者技術者協会となる。55年5月の在日本朝鮮人総連合会の結成は、在日の科学者、技術者へ北朝鮮の科学技術のために尽くすという道を選択させる画期的な転機となり、その拠点としての「朝鮮大学」(のち、美濃部都知事時代の68年に「朝鮮大学校」となる)が56年4月に創立された。 58年4月に、関西にあった自然科学者の組織「在日朝鮮人科学者協会」(53年6月結成)を合わせ、全国的な組織として在日朝鮮人科学技術者協会の結成となる。これには在日朝鮮人建設技術者集団を参加させている。 そして、翌年の6月28日に、社会科学者や医薬部門の別組織を統合することとなり、「在日本朝鮮人科学者協会」が発足した。これによって、北朝鮮を支持する在日知識人の全国組織の統一がなった。また、この間は朝鮮戦争の影響もあって、北朝鮮との組織的つながりはなかったとみられる。 第2段階は、科協の力量を育成拡大させた60年代を指す。機関誌の『科協通報』『朝鮮学術通報』が発刊され、北朝鮮の建設を助けるため科学者、技術者が組織的に帰っていった時代でもある。この時日本の博士号取得者11人も帰った。内訳は工学博士5人、理学博士5人、農学博士1人である。 62年12月の北朝鮮の科学院創立10周年記念大会に在日朝鮮人科学者の招請があって、再入国問題が生じた。 第3段階は、再入国問題に光がみえ、72年の北朝鮮の科学院創立20周年に李珍硅朝鮮大学校学長を団長とする在日朝鮮人科学者代表団が参加した、70年代を指す。この代表団に金日成は「在日朝鮮人科学者たちは祖国の科学技術への発展に積極的に寄与すべきである」と、直接に指示したと伝えられている。 70年代の特徴は、北朝鮮からの技術者の訪日である。来日する北朝鮮の技術者への応接には科協の成員が当たった。それに、金日成指示による北朝鮮への積極的寄与である「愛国工場」の建設がある。その数、67工場・施設が建設されたといわれている。 そして、第4段階は79年4月の科協代表団の北朝鮮訪問にはじまった。 この時の接見で金日成は、北朝鮮の「科学技術を発展させるための在日朝鮮人科学者、技術者たちの任務について」という談話を発表している。この金日成談話は、科協へ北朝鮮の科学技術全般に寄与を求めるものであっ た。それは社会主義圏の科学技術が、日本に比べて劣っているらしいことが、北朝鮮に認識されてきたからであろう。このころ、北朝鮮の科学院と科協の共同研究の推進がいわれる。そして、84年から共同研究が始まり、北朝鮮の科学技術発展を助けることとなる。これは、北朝鮮に日本の先進的な科学技術の導入の必要性を認識させ、科協に再編を求めることになる。 それが85年7月の「在日本朝鮮人科学技術協会」への再編である。それは科学者協会を幅広くし、また北朝鮮の合弁法の成立に対応するもので、希土類金属工業などがその代表例となる。 日本からの科学技術情報収集では、86年の総連第14次全体大会以後繰り広げられた、北朝鮮へ「学術雑誌、科学技術図書、各種機器材料および見本」を送る運動は、80年代を通して、書籍数で22万冊、各種機器材料および見本で4万点にのぼった。 その科協が第5段階へ発展するのは、湾岸戦争後の91年10月に開催された北朝鮮の科学者大会以降ということになる。金正日は、この大会に書簡を送っているが、そのことが科協の転機となる。 総連結成40周年を記念した95年度の学術報告会の「基調報告」に、「在日同胞科学者、技術者の愛国至誠は、原子力工学分野をはじめ、数多くの科学技術書籍と資機材見本を祖国に送るには、余すところなくその役割を発揮した」と、北朝鮮への貢献を述べている23)。そして、具体的には86年からの10年間で、北朝鮮に送った書籍は30万冊を超え、各種機器材料および見本は約10万点に達したという。 この成果を科協は、「社会主義祖国が、帝国主義者との激しい対立の中にあったこの時期、このような科学技術書籍と資機材、見本品は、祖国の科学者、技術者には砂漠での泉のように貴重なものであります」と、北朝鮮の科学者・技術者にとって日本からの情報を砂漠での泉にたとえて報告している。筆者は、ここに嘘はないと思う。これは、見方を変えれば、科学技術で北朝鮮は砂漠だということになる。もちろん、日本との比較であろうが、北朝鮮には何もないということである。これは、日本からの情報なくしては北朝鮮の科学技術は立ち行かないということであろう。 科協の構成人員は1,000人を超えている。その中で、日本の博士号取得者数は120人くらいである。これは、日本に数多くみられる小さな学会の規模である。小さな学会の活動などあまり一般に知られることはない。しかし、産業スパイの組織だと断定するのは、ややオーバーではなかろうか。産業スパイはその活動を隠すが、科協はその成果を公表している。韓国のように受け皿の企業がある国ならいざ知らず、砂漠だと例えられる国の科学技術が、果たして日本の先端技術をたやすく受容できるのだろうか。私には技術移転と産業スパイは異なると思われる。そして、その具体例を希土類合弁で考えてみたい。 6.希土類合弁
国際化学合弁会社の呂永伯社長は合弁事業を始めた理由を3つあげている。その1つが、北朝鮮にはモナズ鉱石が眠ったまま未開発であった。2つがモナズ鉱石を精錬して希土類を生産するのに必要な酸・アルカリ工業が北朝鮮で確立している。3つ目に希土類製品が電子工業にとって重要素材である。この前提で、 87年6月に合弁事業のための会社が日本で設立され、88年9月に合弁契約がなされ成興に国際化学合弁会社が設立された。合弁工場は91年4月に操業開始となり、まもなく日本へ希土類金属製品が輸出された24)。 『東アジア経済情報』によれば、希土類金属の対日輸出額は94年で6,686万6,000円25)、95年が6,255万7,000円(前年比6.4%減) 26)である。96年も上半期でみると希土類金属の対日輸出は落ち込んでいる27)。興南の酸・アルカリ工業の不振が伝えられていることから、その影響と思われる。 95年の科協の大会基調報告に「85年、わが国の合弁法施行を契機に、在日商工人と祖国との合弁事業は、急激に拡大しました」と述べ、その成果の第1に希土類の生産をあげている。この合弁事業に、科協は大きな役割を果たしている。呂永伯氏は、北朝鮮における「最初の最先端技術を伴った生産合弁として発足した希土類合弁は、小生の父呂成根(在日本朝鮮人商工連合会副会長)と著者(呂永伯)が、在日本朝鮮人科学技術協会の力強い科学技術的支援の下で実現したものであります」と、科協の役割に言及している。 希土類はライターの発火合金として用いられてきたが、近年は永久磁石、テレビの蛍光体などの材料として需要が伸びている。北朝鮮に希土類資源が豊富に埋蔵されていることは朝鮮総督府の調査で明らかであった。特に平安北道の鉄山地方のモナズ鉱石は知られていた。このモナズ鉱石の利用は、すでに野口遵の日本窒素が手掛けていた。 日本窒素は、興南に苛性ソーダ工場で消費する炭素電極を製造するため、電極工場を建てた。さらに発展して、炭素電極のみならずアークカーボンの工場も建設する。興南のアークカーボンの工場から、映画用に9万本、青写真用に8万本、医療用に15万本の炭素棒が月産された28)。このアークカーボンの製造にフッ化セリウムが必要であり、セリウムはモナズ鉱石に含まれている。 科協はこの情報を日本の化学工業史から把握していたに違いない。北朝鮮の当局者がこの類いの情報に疎いことは、私など何度も聴かされている。 しかし、日本人はそれを指摘できないでいる。それはさておき、呂親子は科協の協力を得て、北朝鮮のモナズ鉱石活用のための「レア・メタル研究会」というプロジェクトチームを結成した。 「この研究会は1年半の間、現地調査に基づく鉱石の分析や工場立地、製造工程など科学・技術的側面から意欲的な提言をまとめ」29)たのである。 モナズ鉱石の分離精製に手を出しかねていた北朝鮮の実情をみて、科協が開発に乗り出したのは、日本に希土類金属の需要があったからである。それに原料もあり、希土類生産に必要な塩酸と苛性ソーダなどが北朝鮮で供給できるため、主体経済原則に沿った工場の建設ができるという判断があったのだろう。 呂永伯氏は、その合弁事業8年の経験を、次のように総括した。①道路、鉄道輸送の強化、②通信手段の整理(IDD回線使用による電話、ファクシミリの導入)、③ユーティリティの安定強化(停電、水管事故などの防止)、④主・副原料を含む原資材の安定供給、の4点を緊急課題としてあげている。北朝鮮のインフラの整備状況をうかがわせる貴重な報告となっている。 そして、呂永伯氏は「合弁企業に対する政策的バックアップ」の必要性を訴えている。この訴えは、北朝鮮に向けられたものと当初は受け取っていたが、読み返すうちにそれは日本に向けられているように受け取るようになった。その受け取り方は、小林達也氏の次の言葉を思いだしてから強くなった。「工業国は、自らが蓄積した知的資源を、これらの国(開発途上国)に対して、教育的原則に則って――すなわち成長段階や環境に即した内容や方法を整備することによって――分配してやらなければならない。それにより眼に見えない果報が経済的にも政治的にも援助側に期待できるのである」30)。 7.金正日の科学技術政策
総連結成40周年を記念すると銘打った95年の「学術報告会」は、「敬愛する金正日元帥の歴史的な書簡を高く掲げ、祖国の社会主義建設に特色をいかした貢献を願う会員の厚い愛国愛族の熱情にあふれた」とある。この報告会で科学技術協会は、「金正日元帥の綱領的な書簡を高く掲げ、科協事業をより一層発展させる」ことを誓っている。 科協を第5段階へと発展させた金正日の書簡というのは、91年10月に開催された北朝鮮の「科学者大会」に金正日が送った「科学技術発展で新たな転換を呼び起こそう」という書簡を意味する31)。この書簡には「科学研究事業での基本は主体的立場に強固に立ち、わが党と革命が要求する方向に従い科学技術を発展させることです」と、科学研究が党と革命の要求に従うことが強調されている。そして、科学における研究目的は革命と国の建設で生じる課題の解決とされ、「わが国の革命に服務し、わが人民の利益に貢献しない科学技術は、それがいくら発展して現代的であるといっても使えません」と、科学研究事業は必ず北朝鮮の具体的現実に根ざした課題であることが要求されている。 先進科学技術の受け入れに関しては、北朝鮮の科学技術を早く発展させるための方便として、「他国の発展した科学技術を受け入れることは、科学技術分野での主体を立てる事業と矛盾しません」と言っている。そして、他国との交流と協調の強化がここでは強調されている。これはベルリンの壁崩壊後、社会主義圏が縮小しつつある国際環境のもと、91年1月の湾岸戦争での結果、いわゆる社会主義の祖国ソ連の軍事技術の劣性が明白になった後に書かれた書簡であることに、意義があるように思われる。 比較すれば、80年代の後半であれば、政務院の李根模総理の報告においても、「コークス炭が不足し、原油がまだ生産されていない状況のもと、われわれは今後も引きつづき国内の石炭資源にもとづいて金属工業、化学工業をはじめすべての工業部門を発展させなければならない」とあって、まず金属と化学があげられた。その上に、李根模は北朝鮮の「科学技術を急速に発展させるためには、社会主義諸国をはじめ諸外国との科学技術交流事業を活発に進めなければならない」と報告しているいる32)。 ところが、金正日の91年10月28日付の書簡では「社会主義諸国」という言葉など、どこにも出てこない。そして、李根模の「科学研究に力を注ぐ」という第3次7カ年計画についての報告では、一言半句も言及されていない「科学技術協会」の活動を評価する文章が、書簡にははさまれている。 それは、北朝鮮の「科学技術を発展させる事業は祖国の富強発展と民族の繁栄を成し遂げ、祖国の自主的平和統一を早める愛国事業です。在日本朝鮮人科学者をはじめとした海外同胞科学者との創造的協調を広く設けて、彼らが祖国の科学技術を発展させるための愛国事業に積極的に参加するようにしなければなりません」と述べている個所で・科協への熱い思いを読み取ることができる。 この科協を取り巻く環境の変化の間、会長はずっと李時求氏であった。その李時求会長は90年の学術報告会で、北朝鮮の「科学技術発展に効果的に寄与するようになりました」と開会の辞を述べa3)、そして、92年の学術報告会では北朝鮮の「科学技術発展に効果的に貢献した」と述べた。この、「寄与」から「貢献」への言葉の変化の背景に大きな意味が含まれているように思われる。この間に、金正日の書簡が入る。 その上、李時求会長は92年に、北朝鮮の「研究機関間の相互交流を活発に行い、科学技術情報の交換を保証することで、わが科協会員が結合体としての役割を広げました」とも述べている34)。これは、北朝鮮の研究機関が科協の協力というよりも、科協の「指導」で研究を進めていることを意味している。 8.むすびにかえて――北朝鮮工業の方向性と科協
湾岸戦争は北朝鮮に半導体工業の必要性を認識させ、この後92年から科協との共同研究が始まる。半導体分野での北朝鮮との共同研究は、この分野に携わる在日朝鮮人科学者、技術者が北朝鮮の科学者、技術者たちとの情報交換、研究成果の発表などを通じて、日本から技術移転を行おうとするものであった。その中での科協の役割は、直接に担当した朝鮮大学校の金漢泰先生によれば次のように発展している35)。 第1に、半導体分野における論文、資料などを定期的に送り、科学者、技術者たちの研究、実験の後押しをする。 第2に、北朝鮮との学術交流の場を設けて、情報交換および研究成果の発表などを行い、相互の科学技術水準を少しずつ高めていく。 第3に、同一研究テーマを決め、研究・実験を行う。 小林達也氏によれば、「日本が、過去、現在の技術の蓄積から途上諸国に.適した技術を、機械、人間、情報の各面から収集し、それを改良して途上国の適正技術センターに流してやる機関の設立」の必要が痛感されているそうであるが36)、日本から北朝鮮に関しては、科協がその役割を果たしているということになる。 金漢泰先生は、「多孔質シリコンによる光発光」に着目し、92年9月末に北朝鮮を訪れ、北朝鮮の国家科学技術委員会の指導を受け、つまり了解を求め、金日成総合大学、金策工業総合大学、科学院電子工学研究所を回って、具体的協議を行ったという。この具体的協議とは研究指導したということであろうか。そして、金漢泰先生はその翌年93年にも研究指導のため北朝鮮を訪れている。 ここに、技術移転は「適切な技術」を選択して初めて有益な技術移転になること、「適切な技術」は受け手の技術水準と受容能力に規定されること、さらに機械・設備そのものより、それを扱う人と組織にかかわる社会的な技術が重要であるとの、今野浩一郎氏の指摘がいきている27)。 北朝鮮工業の今後は、韓国側からみれば、『北韓の産業』が問題点としてあげた4つの問題への取り組み方にかかっている。しかし、日本からは少し違った視点が出てくる。そしてそれ以上に、切実な問題点の提起は現に合弁企業を経営している国際化学合弁会社の呂永伯社長の提案であろう。 呂永伯氏のいう「合弁企業に対する政策的バックアップ」とは、北朝鮮の技術導入、日本からの技術移転に関しては、科協の存在があって愛国工場から合弁事業、そして共同研究と、経験を重ねてきたが限界に突き当たっているので、日本政府による政府開発援助(ODA)は考えられないかということであろうか。ただし、その時には金秀幸氏の指摘する38)北朝鮮経済の「軍需優先の原則」が問題となろう。 〔注〕 1)飯田賢一「『化学と電気の理想郷』の建設上飯田賢一編『技術の社会史4』有斐閣、82年、232ページ。 2)申在均「80年代朝鮮の社会主義経済建設の展望」『新しい世代』82年7月号・朝鮮青年社。 3)全鎮植「合弁と科学技術について」(90年度「科協学術報告会」での講演筆記)。 4)呉源哲「北韓経済が倒壊する理由」『新東亜』95年1月号。 5)韓国産業銀行調査部『北韓の産業」、ソウル、95年11月刊、49~51ページ。 6)康忠煕「南朝鮮の鉄鋼業とその技術」一、二、三(『科学技術』№1、№2・95年、№1`96年)。 7)金正日「科学技術発展で新たな転換を呼び起こそう一全国科学者大会参加者らに送った書簡」91年10月28日目 8)韓国産業銀行調査部『北韓の産業』、前掲書、222~224ページ。 9)リョム`テギ『朝鮮民主主義人民共和国化学工業史1』平壌、社会科学院出版社、94年。 10)横井陽一「化学工業の技術革新と産業の化学化」今井則義編IV「技術革新」『現代日本の独占資本4』至誠堂、65年2月、133ページ。 11)林雄二郎『日本の化学工業』岩波新書288、57年9月、127~130ページ。 12)「科協中央理事会事業総和報告」(「科協第14回大会」95年)。 13)金海珍「第7回国際シンポジウムに参加して」(『科学技術』№1~2、92年)、20~21ページ。 14)「日本窒素肥料」の子会社として、「朝鮮窒素肥料」は27年に設立され、41年に「日本窒素肥料」と合併する。文中、両社とも通称に従って社名から「肥料」を略した。 15)金海珍「第7回国際シンポジウムに参加して」、前掲。 16〕『北朝鮮政策動向』第183号、91年11月30日(ラヂオプレス刊)。 17)村上貞雄「私がみた北朝鮮の内幕」最終回(『中央公論』96年6月号)、102~103ページ。 18)山崎享・山田義雄・木脇祐之「大同陶石調査報告」『朝鮮総督府中央試験所報告」Vo1.16・№4、36年、1~6ページ。 19)小林達也『技術移転』文真堂、81年4月、2ページ。 20)中村清「戦後の興南工場」(『くさのかぜ』37号、90年7月)、3~6ページ。 21)『産経新聞』95年12月25日。 22)申在均「科学技術協会の30年」(89年6月18日科協結成30周年記念学術報告会での記念講演)科協の時代区分の第1段階から第4段階までの区分は申在均先生の説に従っている。 23)「基調報告」(「95年度科学技術報告会」アジアセンター、95年7月15日)。 24)呂永伯「希土類生産合弁の現況」『科学技術』№1、95年、12~22ページ. 25)東アジア貿易研究会『東ア'ジア経済情報』№21、95年3月、3ページ。 26)東アジア貿易研究会『東アジア経済情報』№33、96年3月、7ページ。 27)東アジア貿易研究会『東アジア経済情報』№38、96年8月、3ページ。 28)広橋憲亮「本宮工場」『化学工業』51年1月号。 29)趙康造「先端技術の調味料レア・アース資源の工業化に向けて」『科学技術』№2・3、90年、38~39ページ。 30)小林達也『続・技術移転』文真堂、73年5月、6ページ。 31)金正日「科学技術発展で新たな転換を呼び起こそう一全国科学者大会参加者らに送った書簡」91年10月28日。 32)李根模「朝鮮民主主義人民共和国第3次7カ年計画について」。 33)李時求「総連結成35周年記念1990年度科協学術報告会開会辞」。 34)李時求「1992年度科協学術報告会開会辞」。 35)金漢泰「半導体分野での祖国との共同研究経験」『科学技術』№l、94年、14~17ページ。 36)小林達也『続・技術移転』文真堂、83年5月、137ページ 37)今野浩一郎「日本企業の直接投資と技術移転」『アジアの工業化と技術移転』(谷浦孝雄編〕アジア経済研究所、90年6月、63ページ。 38)『読売新聞』94年9月16日目 (安部桂司) |