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食料増産の裏にあること JCII・前つくば管理事務所長・安部桂司
「ジャガイモ革命」の報道を読む
飢餓と多くの国民の脱出が伝えられる北朝鮮から「ジャガイモ革命」なる言葉が1999年頃から頻繁に報道されるようになった。餓死者300万人と伝えられる北朝鮮の食糧事情から、この「ジャガイモ革命」は飢餓に喘ぐ北朝鮮が、イネを植えられない地域で食糧増産を始めた、のだろうと観測した。「北鮮」との呼称は、朝鮮総督府施政下では成鏡南北道を指した。1930年代前半、宇垣総督はその「北鮮」地域の米作不適地にジャガイモを栽培させる運動を起こしており、それが北朝鮮の「ジャガイモ革命」を押し進めて地域と重なるところがら、食糧政策の一環だと見られたのであろう。
1997年刊行の『北朝鮮の食糧事情』(日本国際問題研究所)を読むと、そこには「ジャガイモ革命」に付いて一行も論究してない。それまでジャガイモは、キャンペーンを張る作物でなかったことが分かる。
そこで、北朝鮮から報道される「ジャガイモ革命」を追って見ると、1998年11月に入ると、「ジャガイモ栽培面積を2倍に」という、北朝鮮農業省の計画が紹介されている。これは北朝鮮の政権党である労働党中央委員会の機関紙『労働新聞』が、翌1999年にはジャガイモ栽培面積を2倍にし、2002年までジャガイモの栽培面積を体系的に増やすと報道したことを紹介した記事であった。
この報道記事で注目された2点は、一つには水田に稲作の前作としてジャガイモ栽培を指示していることと、二つにはジャガイモ栽培を立派に行えば人民が豊に暮らすことになる、と述べた点である。この一点目は、二毛作運動として後に注目されるが、二点目の人民の生活が豊かになる、の意味が日本では「食糧確保」の面でしか捉えられなかった。そして、12月に入るとジャガイモ畑を水田に求める成鏡南道の運動が紹介され、ここではジャガイモで食糧問題を解決するという北朝鮮側の希望が、字句通りに受け取られた。そこから、水田にまでジャガイモ栽培を普及した真意と、ジャガイモ栽培を立派に行うことが強盛大国建設するための闘争だと述べた意味を正しく掴み得なかったのである。
そして、1999年の北朝鮮三紙「元旦共同社説」の「ジャガイモ生産において革命を起こし、適地適作・適期適作の原則に基づき、われわれの農業構造を改善すべきである。二毛作を大々的に行い、種子革命を引き続き力強く推進すべきである」を、字句通りに受け取り、『労働新聞』(1999年5月21日号)の社説「偉大な金正日同志の提示した農業政策でしっかりと武装しよう」を、「北朝鮮農業の転換」として受け止めたのである。この北朝鮮の「ジャガイモ革命」には国連も食糧増産、飢餓から脱出への努力と見て種子提供を行ったのである。
だが、食糧確保はジャガイモ増産の表の一面であり、「先軍政治」を標榜する国故に裏の一面を見落として来たと言える。言える理由は、戦時下の日本、昭和17年には食糧問題と糖質原料問題との調整が政府の大きな課題と成っていたからである。
戦時下日本での「イモ革命」
この糖質原料問題とは、サツマイモとジャガイモに含まれる糖質が無水アルコール製造の原料と成ったからである。北朝鮮に比べ、南に位置する日本では昭和10年代、正確に言えば昭和12年以降、戦線を中国大陸へ広げてから北朝鮮流に言えば「サツマイモ革命」が押し進められた。むろん、「北鮮」地域と同緯度の北海道では「ジャガイモ革命」が押し進められたのである。この日本の燃料国策として無水アルコールの生産は、先行するヨーロッパの燃料政策を見習ったのであった。第二次世界大戦前のヨーロッパでは、専売制度の下に大量のアルコールを製造していた。これは、無水アルコールをガソリンに混入させることで、ガソリンの節約を図っていたのだが、ヨーロッパでは戦争を準備していたドイツとフランスが特に盛んであった。日本でも、燃料政策の一環として、内燃機関用燃料として無水アルコールをガソリンに混用する方法を取り入れたのである。その結果、昭和12年(1937)には「揮発油及アルコール混用」法が成立している。戦時態勢における日本の三大国策として、燃料国策、鉄鋼国策、繊維国策が挙げられるが、燃料国策ではアルコール専売制度が根幹を成した。それでガソリン混用の無水アルコールの供給を主たる目的として、国営アルコール工場が作られた。
むろん、戦局の長期化は、次第に食糧事情の悪化を招き、主食の補充としてサツマイモ、ジャガイモが大幅に食糧化されて行ったのである。このため、アルコール原料は深刻な打撃を受け、一部国営アルコール工場の操業に影響を与えた。それで昭和20年度(1945)は、前年の2.5倍に当たる緊急大増産計画を建てたのだが、終戦を迎えたのであった。
日本の戦時体制下で無水アルコールは「代用燃料」に使われたが、サツマイモとジャガイモは無水アルコールの生産に限定されなかったのである。石油の一滴は血の一滴と言われた戦時下では、ブタノールの製造にも廻された。サツマイモから製造したブタノールをイソオクタン化して航空用燃料の自給化を図ったのである。更に、ジャガイモからアルコールを生産していた北海道帯広酒精工場を、昭和19年(1944)に発酵法によるグリセリン製造工場に改造することが決められた。戦局の推移は火薬の大量消費を招き、その原料難から火薬原料であるグリセリンの製造を図ろうとしたのである。その上、サツマイモとジャガイモから生産されるデンプンは爆薬の原料として欠かせないモノであった。だから、昭和20年度の2.5倍の緊急大増産計画は戦争継続に欠かせない措置であった。
「ジャガイモ革命」は食糧増産だけが目的なのか?
北朝鮮からの報道を見る限り、「平壌にジャガイモ専門の食堂がオープン」と有り、食糧に使われているように受け取れる。だが、その専門店の料理内容を検討するとジャガイモ餅が主であった。ジャガイモ餅はデンプンを採った粕からも充分に作られることから、北朝鮮でデンプン工業が成立していることを伺わせる報道に成っていた。そこで報道を追って行くと、ジャガイモ加工方法の改善が謳われていることに気付いた。そのまま食糧になるジャガイモに、加工方法を絶え間なく改善せよなどと指示することには矛盾を含んでいる。ジャガイモはそのまま食べても、塩さえ在れば美味な食べ物である。
そして2000年に入ると、デンプン工場の建設が報道される。そのデンプン工場からデンプンが平壌に運ばれたと2000年12月に報道されている。2002年2月23日に金正日が両江道の大紅淵ジャガイモ加工工場を現地指導したことが報道される。その報道内容を見ると、金正日は工場の拡張工事の説明を聞き、デンプンエ場内に「新たに建設された麺職場、水飴職場、酒職場」を見て廻ったとある。幾つかの職場の中でも酒職場の存在は発酵法によるアルコール製造を裏付けることとなる。それから金正日が「労働者らを誠心誠意援助している軽工業科学分院発酵研究所研究士キム・ユンフィ同志と会見」し、彼女の努力を称賛したとの報道は、ジャガイモから発酵法によるアルコール生産を推察させるモノである。
つまり、燃料難の北朝鮮でも、戦時中の日本と同じくガソリンに無水アルコールを混入させる政策が採られていることを推測させる報道となっている。それから、北朝鮮でもジャガイモデンプンが爆薬原料であることは常識である。
更に日本の戦時中を想起させたのが、2003年に入っての「サツマイモ栽培」の報道である。サツマイモは単位面積当たりのデンプン収量がデンプン作物中で最大と言われている。だから、サツマイモの作れる土地ならばサツマイモを作ることが、糖質原料の生産上からは合理的なのである。報道に拠れば、輸送上の問題で平壌周辺ではサツマイモ栽培を奨励しているそうだが、それは両江道からジャガイモデンプンを運ぶより、平壌周辺でサツマイモデンプンを生産した方が、平壌にある幾つかの食品関連工場への原料供給が容易だ言うことであろう。その平壌の食品関連工場には「愛国工場」が幾つも存在する。
愛国工場建設は在日朝鮮人の力
北朝鮮には朝鮮総連の援助で建設された「愛国工場」と呼ばれる、日本からの技術移転を伴った産業施設である。代表的な愛国工場を挙げると、平壌小麦粉綜合加工工場の麺類製造装置、平壌オンビール工場のビール製造装置、平壌穀産工場の異性化糖製造装置、モラン綜合食糧工場の菓子製造装置、ジンベキ愛国精米工場の精米施設などがある。
この中には、工場全体の建設に関わったモノもあるが、主要な工場設備の設置に関わったモノもある。1980年代で67工場の製造設備の設置に関わり、投資額200億円と伝えられている。
金日成は在日の商工人が北朝鮮を訪問したさい「在日同胞商工業者は祖国の社会主義建設に積極的に寄与すべき」だと力説した。それを受けて、翌1977年4月には「平壌愛国製麺工場」が建設されている。1979年4月に「平壌愛国製糖工場」の竣工式が行われ、これには朝鮮総連の韓徳銖議長も参加した。
これら愛国工場建設の成果を受けて、金日成は朝鮮労働党中央委員会第6期第11次全員会議(1986年2月5日~8日開催)で「技術革命の促進と金属工業の発展について」という題で総括した。その中で先進技術の導入が強調され、「在日本朝鮮商工業者たちとも合弁会社を組織」し、取り分け日本の先進技術を取り入れることを指示した。
科協の黄詰洪会長は「合弁事業は食堂喫茶店のサービス部門からはじめられ、4.5年の間に農業、水産業、鉱業、軽工業、電気、機械、化学などの部門まで大きく拡大した」(「在日本朝鮮人科学技術協会の対北韓科学技術協力経験」『科学技術政策』2002年4月刊)と報告している。科協の黄詰洪会長は、これら北朝鮮への技術支援を「海外僑胞は海外に住んではいるが、自分の祖国の科学技術発展に尽くすことが出来る有利な条件が整えられている」からだと言う。
そして、黄詰洪会長は、この合弁事業は業種と規模に変化があったが、今日まで(2002年時)希土類製錬、繊維製品製造業、水産物の加工及び貿易、段ボール製造、食堂経営などは継続している、と報告している。そこから平壌の愛国工場も継続されていることが伺われたのである。愛国工場が継続されていたから、無水アルコールの製造方法を日本から技術移転出来たように見受けられる。
参考文献 1、ラジオプレス『PR北朝鮮FAXニュース』(日刊紙)、本文中に引用した北朝鮮側報道文はここから引用している。この『PR北朝鮮FAXニュース』紙は、財団法人ラジオプレスが日刊で北朝鮮当局が発表する報道を訳してFAXで契約者へ送付している。尚、ラジオプレスでは『PR北朝鮮政府動向』(月刊誌)も刊行している。 2、黄詰洪「在日本朝鮮人科学技術協会の対北韓科学技術協力経験」(科学技術政策院『科学技術政策』(No134、2002年4月刊) 3、二国二郎編集『デンプンハンドブック』(朝倉書店、1961年1月刊) |